第4回十字軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 22:37 UTC 版)
背景
1198年、主要な国王が参加しながらあまり成果のなかった第3回十字軍から10年たち、ローマ教皇インノケンティウス3世は、新たなる十字軍を呼びかけた。各国王はこれに参加しなかったが、シャンパーニュで開かれた馬上槍試合(トーナメント)における勧誘で、シャンパーニュ伯ティボー3世、ブロワ伯ルイ1世を中心とした有力なフランス貴族が参加を決め、その後、フランドル伯ボードゥアン9世等が加わり、70人以上の諸侯、騎士の参加を得た。シャンパーニュ伯が指導者になり、具体的な遠征計画を立てるための代表者として6人の騎士が選ばれた(その一人が、詳細な記録を後世に残したジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンである)。彼らが決めた方針は、イスラム教徒の本拠地であるエジプト(アイユーブ朝)のカイロを海路から攻撃するというもので、その輸送をジェノヴァやピサにも呼びかけたが、結局ヴェネツィアに依頼することに決まった。ヴェネツィアは単に輸送を担当するだけでなく、元首(ドージェ)エンリコ・ダンドロ自ら参加することになった。1200年にティボーが病死したため、新たにモンフェラート侯ボニファーチョ1世を指導者に選出した。
一方、シリアとパレスチナを支配していたアイユーブ朝は、エルサレムへの武装巡礼団が時々ベイルートなどの沿岸都市を襲うため、イタリア諸都市に対し西洋人の武装勢力を運ばせないようにする協定を行おうとしていた。1202年、アイユーブ朝の王でサラーフッディーンの弟アル=アーディルは、互いに貿易相手として重要な関係にあったヴェネツィア元首エンリコ・ダンドロと協議し、以下の協定を交わしている。
ヴェネツィアは、十字軍との契約もアイユーブ朝との協定も、同時に守るべく行動していた。
- ^ 高橋保行『東方の光と影』103頁、春秋社 (1991-05-30出版)ISBN 9784393261033 (4393261038)
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