石徹白騒動
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幕府による本格的な吟味
寺社奉行から評定所への吟味先変更
宝暦8年7月21日(1758年8月24日)三度目の箱訴によって受理された訴状は、まずこれまで同様、寺社奉行が吟味を行うことになった。しかし今回は寺社奉行が交代しており、朽木玄綱が吟味を担当することになった。箱訴当日、久保田九郎助、森清右衛門の2名に簡単な取調べがなされた後、両名は下谷町松屋源助方に宿預けを言い渡された。続いて宝暦8年8月10日(1758年9月11日)、寺社奉行朽木玄綱は久保田九郎助、森清右衛門の両名を呼び出して取調べを行った[88]。
石徹白騒動の裁判が動き出した頃、もう一つ郡上藩で継続していた大事件である郡上一揆の裁判も、また大きな転機を迎えていた。時の将軍・徳川家重が、郡上一揆の問題の背景には幕府要人の関与があったのではないかとの疑いを抱いたことが引き金となり[89]、宝暦8年7月20日(1758年8月23日)、老中酒井忠寄は寺社奉行阿部正右ら5名を御詮議懸りに任命して、評定所が郡上一揆の吟味を行うこととなった。また吟味進行の指揮を担ったのは老中首座・堀田正亮、老中酒井忠寄、将軍側近である側用取次の田沼意次の3名であり、堀田と田沼が事件糾明の積極論者であったと考えられている[90]。
宝暦8年8月22日(1758年9月23日)、老中酒井忠寄は石徹白騒動についても郡上一揆の吟味と同じく評定所が行うよう、御詮議懸りの5名に覚書を交付した。同日夕刻、これまで石徹白騒動の吟味を担当してきた寺社奉行から評定所に、石徹白騒動に関する書類すべてが引き渡された。これによって郡上一揆と石徹白騒動という郡上藩で同時期に発生した大事件2件は、幕府評定所によって吟味がなされることとなった[91]。
評定所吟味の争点
評定所における吟味の焦点は、まず石徹白騒動の最大の原因ともいえる、社人の共有財産であった白山中居神社の造営林や他の社人の持ち林を勝手に伐採したり、追放した社人の資産を私物化し、更に社人から新たに三分の一の年貢を取り立てるなどという石徹白豊前の数々の専横ぶりであった[92]。もちろん500名を越える大勢の社人を石徹白から追放したことについても大きな問題とされた[93]。
石徹白豊前の専横とともに事件の大きな争点となったのが、豊前は果たして世襲の神主であるのか、そして石徹白が吉田家の支配であったのかそれとも白川家の支配であったのかという点であった。世襲神主として吉田家の権威を笠に着て強権的な石徹白支配を進めてきた豊前に対して、反豊前派は神主は世襲ではなく頭社人の中から選ばれるものであり、石徹白は白川家支配であることを主張した[22]。
吟味が進行する中でその問題の大きさが明らかになってきたのが、石徹白豊前と郡上藩役人との癒着であった。豊前が郡上藩の家老、大目付、寺社奉行らに贈賄し、その結果、豊前の石徹白における専横を許し、騒動を発生させたことは評定所吟味の過程で厳しく追及されていく[94]。
また石徹白騒動が郡上一揆とともに幕府評定所の場で吟味が行われることになった背景には、郡上一揆と同じく郡上藩主の金森家と幕府要人との癒着が、事件をここまでこじらせる一因になったのではないかとの疑いがあり、郡上一揆とともに幕府要人と金森家との癒着解明が吟味の焦点の一つとなった[95]。
吟味の進行
幕府評定所は騒動の関係者40余名を江戸に呼び出し、吟味が進められた。評定所で吟味がなされるきっかけとなった金森家と幕府要人との癒着については、石徹白騒動の吟味に関しては、寺社奉行であった本多忠央が事件処理について金森家に便宜を図ったことについては、寺社奉行間で合議を行った結果であることを評定所側に認めさせるなど、事件の真相糾明に熱心であった田沼意次の努力にもかかわらず不十分なものに終わった[96]。
しかし幕府要人以外の金森藩関係者、騒動の当事者らに対する吟味は厳しく行われた。まず宝暦8年9月7日(1758年10月8日)、杉本左近、石徹白豊前らの尋問が行われたのを皮切りに、宝暦8年10月16日(1758年11月16日)以降、宝暦8年の年末にかけて金森藩の寺社奉行、根尾甚左衛門を始めとする郡上藩役人、騒動のきっかけとなった威徳寺の看坊であった恵俊といった関係者への尋問が行われた。厳しい尋問の中で体調を悪化させる関係者が続出し、宝暦8年11月26日(1758年12月26日)には郡上藩寺社奉行の根尾甚左衛門が牢死し、遺体は罪人扱いの取捨処分となった。そして宝暦8年12月12日(1759年1月10日)には寺社奉行手代の片重半助も牢死した[97]。その他、石徹白騒動関係者では郡上藩大目付の津田平馬も牢死している[98]。
吟味の中で評定所が最も頭を痛めたのが、石徹白が果たして吉田家の支配であるのか白川家の支配であるのかについてであった。 宝暦8年11月8日(1758年12月8日)に、評定所は京都町奉行に対し、石徹白が吉田家支配か白川家支配かについて、両家に問い合わせるよう調査を依頼した。宝暦8年11月20日(1758年12月20日)には京都町奉行から吉田家は諸神社全て支配している旨の回答があり、一方、白川家からは支配下の神社は一社もない旨の回答がなされたとの報告がなされた。しかし騒動の吟味の過程で杉本左近の曽祖父が白川家の門弟であったことが明記された書状が出て来たため、神祇伯である白川家との関係を憂慮した幕閣は、事実認定を慎重に進めたが、結局、評定所は宝暦8年12月15日(1759年1月13日)、問題の書状は私文書である上に疑義があるとし、公に確認した京都町奉行の報告を採用し、石徹白は吉田家支配であるとの結論を出した[99]。
騒動関係者に対する多くの尋問、書類の調査、そして8回に及ぶ評定所での吟味の結果、宝暦8年12月25日(1759年1月23日)、評定所は郡上一揆と同一日に石徹白騒動の判決を言い渡した[100]。
注釈
- ^ 石徹白豊前については大賀(1980)のように上村豊前とする文献もある。ここでは幕府評定所の判決で用いられ、野田、鈴木(1967)、白鳥町教育委員会(1976)、上村(1984)、高橋(2000)など多くの文献で採用されている石徹白豊前を用いる。
- ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、桜井大膳の書状は現存しているものは写しであり、また宝暦4年8月の日付が記されているが、これは杉本左近らが幕府寺社奉行に訴状を提出した月と同一であり、訴状の内容がわからない状態でその内容について反論する書状を出したとは考えにくい点などから、更に慎重に検討する必要があるとする。
- ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、後の目安箱への箱訴状などから石徹白から追放された世帯数は96軒程度、また石徹白豊前が幕府評定所での尋問で、追放処分後に石徹白に残った世帯は、頭社人4世帯、平社人40世帯の計44世帯程度と証言しており、96世帯と44世帯を合計すると140世帯、あと外末社人が10世帯あったため、当時の石徹白は約150世帯で構成されていたと推定される。
出典
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