石徹白騒動 評定所の判決

石徹白騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/30 13:48 UTC 版)

評定所の判決

宝暦8年12月25日(1759年1月23日)夕方から、評定所は5名の老中、側用取次の田沼意次、御詮議懸り5名らが列席する中、郡上一揆並びに石徹白騒動の判決言い渡しを行った。言い渡しは数多くの提灯で照らされた評定所内で夜を徹して行われ、翌日朝までかかった[101]

郡上藩主及び藩役人への判決

まず郡上藩藩主の金森頼錦は、郡上一揆及び石徹白騒動の責任を問われ、領地召し上げ、盛岡藩預かりを言い渡された。ここに名門金森家は大名家としては断絶した[102]。評定所の判決では、大規模な百姓一揆であった郡上一揆に関する藩主としての責任は、主に郡上藩領の年貢取立てに関する問題解決を幕府権力の介入で解決しようとしたという筋違いを問われたが、石徹白騒動についての責任は、騒動に当たり反豊前派の訴えに全く耳を貸そうともせず、石徹白豊前側の言い分のみを聞いた結果、豊前の石徹白での専横を許し、大勢の社人の追放という事態を招いた責任を厳しく問うた[103]

郡上藩家老職の渡辺外記、粥川仁兵衛への判決は遠島であった。両名については郡上一揆についての責任も問われたが、石徹白騒動に関しては石徹白豊前から収賄した上に、やはり反豊前派の言い分を全く聞き届けずに騒動を激化させた責任を問われた[104]

寺社奉行の根尾甚左衛門への判決は、郡上藩の寺社行政の責任者でありながら石徹白豊前から収賄した上、豊前に対する告発があったのにもかかわらず全くそれを取り上げようとせず、大勢の社人追放という事態を招いたあげく、追放された社人の資産売却代金を着服したことを厳しく断じ、死罪とされた。また寺社奉行手代の片重半助についても、騒動に関して虚偽の吉田家からの指示を作成し、上役の根尾甚左衛門と同じく追放された社人の資産売却代金を着服した責任を問われ、やはり死罪となった。郡上一揆、石徹白騒動を通じ、死罪を言い渡された役人は根尾甚左衛門と片重半助のみであったが、両名とも実際には牢死しており刑の執行はなかった[105]

大目付の津田平馬は寺社奉行の根尾甚左衛門が病気療養中に寺社奉行の職を代行する中で、石徹白豊前から収賄し、やはり豊前の言い分のみを聞き、大勢の社人追放という事態を招いた責任があるとされ、中追放の判決を受けた[106]。なお津田も牢死したため実際の刑の執行は行われなかった[98]

騒動当事者への判決

石徹白騒動の裁判で大きな争点とされた、石徹白豊前が世襲神主であるのかどうかと、石徹白が吉田家支配であるのか白川家支配であるのかについては、幕府評定所は豊前側の言い分を認め、石徹白豊前は世襲の神主であり、また石徹白は吉田家支配であるとの判断を示した[107]

しかし石徹白豊前の石徹白での数々の専横については、幕府評定所は、豊前が郡上藩役人らへ贈賄工作を行った上で、大勢の社人を追放したあげくに追放社人の資産を横領し、白山中居神社の神人である石徹白の住民に新たに三分の一課税を行うなどの行動について、豊前自らが神地である石徹白を押領しようとしたものであると断じ、豊前に死罪を言い渡した[108]。評定所での判決言い渡し後、獄門と死罪を言い渡された者たちはそれぞれ「獄門」、「打首」と書かれた木札を腰に付けられた上で刑場へ引かれ、処刑されていった。石徹白豊前も死罪を言い渡された中の一人として判決言い渡し直後に処刑された[109]

石徹白豊前以外の騒動当事者は、杉本左近が三十日押込、宝暦7年(1757年)11月に寺社奉行に対して再度の訴えを起こした上村十郎兵衛、上村五郎右衛門、植村七右衛門、宝暦8年(1758年)に目安箱に箱訴を行った久保田九郎助、森清右衛門らについては急度叱りという判決であった。これは石徹白が白川家支配であると主張したことと石徹白豊前が世襲神主ではないと主張した点が、裁判において事実と異なる主張を展開したとして受けた罪状であった。また杉本左近らは吉田家に対してその石徹白支配を認める詫び状の提出を命じられたが、その上で石徹白に住むことは問題なしとされた[110]

その他、石徹白豊前の専横に手を貸した豊前派の社人は、豊前から庄屋に任じられた由助が、追放社人の財産を勝手に処分を進めたことについて、主人の豊前の指示であったとはいえ不届きとして軽追放が言い渡されたが、その他の人々は無罪とされた[111]

また、騒動のきっかけとなった威徳寺の看坊であった恵俊は、事実と異なる話をもって威徳寺の掛所指定を進めようとしたことが不届きであるとして、中追放が言い渡された[112]


注釈

  1. ^ 石徹白豊前については大賀(1980)のように上村豊前とする文献もある。ここでは幕府評定所の判決で用いられ、野田、鈴木(1967)、白鳥町教育委員会(1976)、上村(1984)、高橋(2000)など多くの文献で採用されている石徹白豊前を用いる。
  2. ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、桜井大膳の書状は現存しているものは写しであり、また宝暦4年8月の日付が記されているが、これは杉本左近らが幕府寺社奉行に訴状を提出した月と同一であり、訴状の内容がわからない状態でその内容について反論する書状を出したとは考えにくい点などから、更に慎重に検討する必要があるとする。
  3. ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、後の目安箱への箱訴状などから石徹白から追放された世帯数は96軒程度、また石徹白豊前が幕府評定所での尋問で、追放処分後に石徹白に残った世帯は、頭社人4世帯、平社人40世帯の計44世帯程度と証言しており、96世帯と44世帯を合計すると140世帯、あと外末社人が10世帯あったため、当時の石徹白は約150世帯で構成されていたと推定される。

出典

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  12. ^ 野田、鈴木(1967)p.61、高橋(2000)pp.142-143
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