石徹白騒動 五百余名の追放

石徹白騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/30 13:48 UTC 版)

五百余名の追放

杉本左近らの追放

そのような中、石徹白豊前による強権的な石徹白支配は更に強められていった。宝暦5年5月6日(1755年6月15日)には、石徹白における反豊前派の急先鋒とされた上村源右衛門、上村猪右衛門、上杉六兵衛の3名の社人が郡上八幡で入牢処分を受けることになった。また宝暦5年の春からは、社人に対して石徹白外へ出ることと3名以上の会合を禁止し、石徹白豊前宅に常駐することになった郡上藩の足軽2名が取り締まるようになった。しかも豊前宅に常駐した足軽の滞在費は社人に割り当てられた[58]

宝暦5年11月26日(1755年12月28日)、江戸で寺社奉行に越訴を起こした杉本左近、上村重郎兵衛、桜井吉兵衛と、上村源右衛門、上村猪右衛門、上杉六兵衛の計6名は郡上藩領から追放欠所処分となり、6名は三方に分けられて追放された。杉本左近ら江戸越訴組は400日以上、上村源右衛門らも200日以上拘束されており、また杉本左近らは400日あまりの拘束期間に一度も吟味を受けることが無く、そのあげくの処分であった。杉本左近は郡上藩南境の郡上郡美並村母野で解き放たれたが、長期間の拘束によって足腰が立たないほどに衰弱していた。衰弱した左近を見た近隣の住民らの助けもあって、少しずつ体力を回復した杉本左近は、宝暦5年11月28日(1755年12月30日)、旧友である各務郡芥見村の豪農、篠田源兵衛を頼ることになった[59]

篠田源兵衛の登場

篠田源兵衛はかつて白山参りを行った際、下山時に体調を崩し、石徹白にて杉本左近の世話になり、それ以降左近と親交を結ぶようになったという。長い拘束の後に郡上藩領を追放された杉本左近を篠田源兵衛は暖かく迎え入れた。10日ほどの滞在で体力が回復してきた左近は、暖かくなってから活動を開始してはどうかと引き止める篠田源兵衛を振り切り、上京することとした。源兵衛は出発する杉本左近の衣類から旅費まで援助した[60]

この後、篠田源兵衛は石徹白から追放された多くの社人の保護や、江戸での訴訟に対して総額千両にも及ぶ私財を貸し与え、石徹白騒動の訴訟の進め方についても親身になって相談に応じていくことになる[61]

社人多数の追放処分

杉本左近らの追放処分後まもなく、郡上藩寺社奉行の根尾甚左衛門は反豊前派の中心と目される14名を郡上八幡に呼び寄せ、更に続いて60余名の社人も呼び寄せた。寺社奉行の根尾はまず14名に対して、かねてから言い渡してあるように吉田家支配を受け入れ、万事豊前の指示に従うようにとの文章に捺印するように命じたが、誰一人として従おうとしなかった。根尾は捺印を拒否した14名と60余名の社人を入牢させ、一昼夜全く飲み食いをさせずに置いた上で、郡上藩からの追放処分とした。その際に入牢時に取り上げた着替え、ももひき、蓑傘などの所持品に加え、持参してきた旅費まで没収した。冬の寒空の中、薄着で放り出された社人らを見た和良村中保(現郡上市八幡町美山)の庄屋が気の毒に思い、せめて蓑傘だけでも返してやってほしいと嘆願したが受け入れられなかった。この結果、石徹白の反豊前派の家はほとんど世帯主がいなくなってしまった[62]

宝暦5年(1755年)11月末、石徹白豊前の要請を受け、郡上藩寺社奉行の根尾甚左衛門は手代の片重半助、嵯峨山勘平と22名の足軽を石徹白に派遣した。そして先日追放した社人の家族を豊前宅の庭に集め、吉田家支配を受け入れ、万事豊前の指示に従うようにとの文章に捺印するように命じたが、誰一人として捺印しようとはしなかった。この様子を見た石徹白豊前が「この者どもは皆、白川殿白川殿と申し、吉田様の印判をしようとしませんので、そんなに白川が良いのならば、京都の白川では遠すぎますゆえ、飛騨の白川へ追放してください」と発言したのにまかせて、飛騨の白川村に追放すると申し渡された。突然の追放言い渡しに驚いた人々は、せめて暖かくなる春まで待って欲しいと訴えたが許されず、宝暦5年(1755年)11月末から宝暦5年12月21日(1756年1月22日)までの約3週間の間に、記録によって多少の差はあるが、宝暦8年(1758年)の箱訴状によれば96軒500名余りの人々が石徹白から文字通り着の身着のままで追放された。これは当時の石徹白全体の三分の二に相当すると推定されている[† 3][63]

なお、石徹白での騒動激化と同時期に郡上藩領では郡上一揆が起きており、やはり解決の方向性が見出せない中で混乱が長期化していた。石徹白騒動と郡上一揆は発生原因や経緯が異なる別個の事件であり、両者の事件当事者間ではっきりした連携がなされた形跡も見られない[64]。しかし郡上藩側としては、石徹白騒動で行った500名以上の社人追放というきわめて強硬な処分は、一揆を続ける郡上藩領の農民への見せしめとする意図があった[65]

追放社人の苦闘

厳冬期の雪道を通り、追放先とされた飛騨の白川郷に向かわせられた石徹白の社人たちの中には、凍死をした者や険しい峠道で谷底に落ちてしまった者もあった、しかも石徹白同様、山が深く雪も多い白川郷にこれほどたくさんの追放者を養える余地があるはずもなく、多くの追放者社人らは更に飛騨の他の地域、美濃、越前、遠くは近江へと流浪した。多くの人々は騒動が解決する宝暦8年(1758年)末までの3年間、安住の地を得ることなく苦闘を続け、体力の劣る老人や子どもを中心として餓死者が相次いだ。宝暦8年(1758年)の箱訴状によれば餓死者は70余名に達し、中でも子どもの餓死者が約半数を占めたという[66]

石徹白を追放された社人らは多くの場所で厄介者扱いをされたが、援助の手が全く差し伸べられなかったわけではない。中でも先に杉本左近を援助した各務郡芥見村の豪農、篠田源兵衛は、追放社人を援助するために大金を貸し与えた[67]

石徹白内の温度差

宝暦5年(1755年)11月末から宝暦5年12月21日(1756年1月22日)にかけて、石徹白全体の約三分の二にあたる社人が追放されたが、追放された社人の構成を見ると、そのほとんどが中在所、下在所、西在所の社人であり、上在所と小谷堂の社人は少ない。これは上在所は白山中居神社のお膝元であり、同神社の神主である石徹白豊前を支持する人々が多数を占めていたためと見られる。なお上在所の住民で数少ない追放処分者が杉本左近である[68]

一方、小谷堂で追放処分となった社人が少なかった原因は、宝暦6年3月15日(1756年4月14日)付けで、これまで石徹白豊前の言動を非難してきたことは誤りであり、どのような処分も受けるので、これまで通り石徹白に置いて欲しいという内容の詫び状を、豊前に提出したことによると考えられる。これは小谷堂の住民が追放処分を免れるとともに、反豊前派には組しないとの誓約書の意味もあった[69]


注釈

  1. ^ 石徹白豊前については大賀(1980)のように上村豊前とする文献もある。ここでは幕府評定所の判決で用いられ、野田、鈴木(1967)、白鳥町教育委員会(1976)、上村(1984)、高橋(2000)など多くの文献で採用されている石徹白豊前を用いる。
  2. ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、桜井大膳の書状は現存しているものは写しであり、また宝暦4年8月の日付が記されているが、これは杉本左近らが幕府寺社奉行に訴状を提出した月と同一であり、訴状の内容がわからない状態でその内容について反論する書状を出したとは考えにくい点などから、更に慎重に検討する必要があるとする。
  3. ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、後の目安箱への箱訴状などから石徹白から追放された世帯数は96軒程度、また石徹白豊前が幕府評定所での尋問で、追放処分後に石徹白に残った世帯は、頭社人4世帯、平社人40世帯の計44世帯程度と証言しており、96世帯と44世帯を合計すると140世帯、あと外末社人が10世帯あったため、当時の石徹白は約150世帯で構成されていたと推定される。

出典

  1. ^ 野田、鈴木(1967)p.62、高橋(2000)p.378
  2. ^ 野田、鈴木(1967)p.62、高橋(2000)pp.378-379
  3. ^ 野田、鈴木(1967)p.63、高橋(2000)p.379
  4. ^ 野田、鈴木(1967)p.63、大賀(1980)p.180
  5. ^ 野田、鈴木(1967)pp.64-65、大賀(1980)p.180
  6. ^ 野田、鈴木(1967)pp.65-66、大賀(1980)p.180、高橋(2000)pp.391-392
  7. ^ 野田、鈴木(1967)pp.66-68、大賀(1980)p.180
  8. ^ 野田、鈴木(1967)p.68
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  10. ^ 野田、鈴木(1967)p.61、白鳥町教育委員会(1976)pp.133-135、p.176
  11. ^ 高橋(2000)pp.140-142
  12. ^ 野田、鈴木(1967)p.61、高橋(2000)pp.142-143
  13. ^ 野田、鈴木(1967)pp.61-62、白鳥町教育委員会(1976)p.226、高橋(2000)pp.142-143
  14. ^ 白鳥町教育委員会(1976)pp.226-228、上村(1984)p.20
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