石徹白騒動 必死の訴え

石徹白騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/30 13:48 UTC 版)

必死の訴え

杉本左近の上京

石徹白で500名あまりの追放が強行されていた宝暦5年(1755年)12月、杉本左近は各務郡芥見村の篠田源兵衛宅から京都へと向かった。これより先、宝暦5年(1755年)2月に、郡上八幡で拘束されていた杉本左近の名代として、左近の叔父である杉本左太夫らが京都の白川家を訪れ、白山中居神社の社人たちが白川家の門弟になっていたことの確認を試みていたが、その際、西園寺家に白川家への仲介を依頼していた。宝暦5年(1755年)12月からの杉本左近の上京時もまた、公家への縁故を頼り、そして白川家に対して改めて支援を依頼した[74]

杉本左近はしばらくの間京都で活動していたが、やがて美濃に戻った。美濃には500名あまりの追放された社人たちの多くが逃れてきていた。追放された社人らと善後策を相談する中で、とにかく江戸で訴訟を起こそうということになり、宝暦6年(1756年)7月末、杉本左近は単身江戸へと旅立った[75]

駕籠訴決行

江戸に到着した杉本左近は、公事宿である上野町上州屋新五郎方に宿を定めた[76]。左近は上州屋新五郎方で石徹白から追放された社人84名連名の訴状を書き、宝暦6年8月4日(1756年8月29日)、駕籠で登城する老中松平武元の行列に訴状をもって飛び込むという駕籠訴を決行した。訴状は受理され、駕籠訴を行った杉本左近は当面上州屋新五郎方に宿預けとされた。しかし訴えが神社に関することであるとして、訴状は宝暦6年8月21日(1756年9月15日)に、寺社奉行の本多忠央に回された。宝暦4年(1754年)8月の越訴時とは異なり、今回は老中から回ってきた訴えであったため、本多寺社奉行は改めて金森家に訴状を回すことは出来ず、吟味を開始せざるを得なかった[77]

宝暦6年(1756年)閏11月、石徹白豊前が江戸に呼び出され、吟味が開始された。しかしその後吟味は進まず、事態は全く動かなかった[78]

困難続く追放社人

宝暦6年(1756年)閏11月、石徹白豊前が江戸に呼び出された後も、石徹白では豊前派の社人が郡上藩の役人の協力を受けつつ、追放された社人の家屋を勝手に取り壊して薪にしたり、訴訟の対象となっている白山中居神社の造営山や追放社人の持山を勝手に伐採するといった、豊前がいる時と全く変わらない状態が続いていた[79]。宝暦5年(1755年)末の500名あまりの社人追放から約1年が経過し、餓死者は40名を越えた。事態の好転がなかなか見られぬ中で、追放社人らの疲労は増していった[80]

このような中で、各務郡芥見村の豪農、篠田源兵衛は追放された石徹白社人のために多額のお金を貸し続けた。また、石徹白豊前の片腕とも言われていた豊前の妹婿の上杉左門が、妻子と離縁して石徹白を去り、追放社人側に加担するといった出来事も起こった。上杉左門がもたらした最新の石徹白情勢を分析する中で、膠着した事態を解決するために新たな訴訟を進めることになった[81]

寺社奉行への再度の訴え

石徹白豊前側から離反した上杉左門によれば、石徹白では豊前派の社人らが郡上藩の役人と結んで勢力を振い続けており、当面、追放社人らの訴えが実りそうな情勢ではないとのことであった。しかし豊前の右腕であった左門の加勢は追放社人を力づけ、上村十郎兵衛、上村五郎右衛門、植村七右衛門の3名を代表として、新たな訴えを行うこととなった[82]

82名の社人と家持の6名の家来が署名した訴状を持参した上村十郎兵衛らは、宝暦7年(1757年)11月、再度寺社奉行の本多忠央に訴状を提出した。今回も訴状は受理はされたが、やはり全く寺社奉行の吟味は進まなかった。500余名の追放から2年が経過した宝暦7年(1757年)末には、追放社人の餓死者は62名に達した。追放社人の困難な状態が極限に達しているのにもかかわらず全く進展しない訴訟に、追放された社人たちの中から江戸で寺社奉行に訴状を提出した上村十郎兵衛らが、本当に訴状を提出したのか疑う声が出始める事態となった[83]

篠田源兵衛の訴訟への協力

極度の困窮状態が続く中で進まない訴訟に、追放社人間の団結に揺らぎが生じる事態を救ったのが篠田源兵衛であった。源兵衛は有力追放社人らと協議を重ね、膠着した事態の打開策を練った。篠田源兵衛らはまず、江戸で訴訟を進めている人材が数名と手薄である点が問題であると考えた。続いて京都の白川家に願い出て、白川家から幕府に吟味の催促を願ってもらうこと、それでも裁判が進展しないようならば、寺社伝奏を通じて朝廷に訴えるという策を練った。そしてまず宝暦8年2月26日(1758年4月4日)、長尾左兵衛、久保田九郎助の2名の社人が白川家に対する働きかけを進めるために京都へ出発した[84]

しかし極度の窮乏状態にあった石徹白から追放された社人らにとって、篠田源兵衛からの援助があったといっても、江戸で訴訟を進める人材増強は至難の業であり、ようやく宝暦8年(1758年)6月初めになって、久保田九郎助、森左衛門が同5月までに非業の死を遂げた追放社人餓死者72名の名簿を携え、江戸に向かった。結局、久保田九郎助、森左衛門が行った箱訴が受理され、幕府による訴訟が進められることになったため、寺社伝奏を通じての朝廷への訴えは行われなかった[85]

箱訴決行

宝暦8年(1758年)6月初旬、江戸に到着した久保田九郎助、森清右衛門の2名は、先に訴訟を行っていた杉本左近や上村十郎兵衛らと異なる公事宿である下谷町松屋源助方に宿を定めた。これは篠田源兵衛の仲介があっても、やはり一向に進展しない訴訟に左近らへ対する不信感があった可能性がある[86]。久保田九郎助、森清右衛門は、下谷町松屋源助方で宝暦4年(1754年)以降、石徹白豊前とその徒党によって荒らされた石徹白について、そして豊前らの数々の横暴な振る舞いについて指弾した訴状を書き上げ、それに持参した追放社人餓死者72名の名簿を添え、宝暦8年6月11日(1758年7月15日)、評定所の目安箱に訴状を投函する箱訴を行った。しかし全く動きが見られなかったため、宝暦8年7月2日(1758年8月5日)、宝暦8年7月21日(1758年8月24日)と箱訴を繰り返した結果、三度目の箱訴でようやく受理がなされた[87]


注釈

  1. ^ 石徹白豊前については大賀(1980)のように上村豊前とする文献もある。ここでは幕府評定所の判決で用いられ、野田、鈴木(1967)、白鳥町教育委員会(1976)、上村(1984)、高橋(2000)など多くの文献で採用されている石徹白豊前を用いる。
  2. ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、桜井大膳の書状は現存しているものは写しであり、また宝暦4年8月の日付が記されているが、これは杉本左近らが幕府寺社奉行に訴状を提出した月と同一であり、訴状の内容がわからない状態でその内容について反論する書状を出したとは考えにくい点などから、更に慎重に検討する必要があるとする。
  3. ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、後の目安箱への箱訴状などから石徹白から追放された世帯数は96軒程度、また石徹白豊前が幕府評定所での尋問で、追放処分後に石徹白に残った世帯は、頭社人4世帯、平社人40世帯の計44世帯程度と証言しており、96世帯と44世帯を合計すると140世帯、あと外末社人が10世帯あったため、当時の石徹白は約150世帯で構成されていたと推定される。

出典

  1. ^ 野田、鈴木(1967)p.62、高橋(2000)p.378
  2. ^ 野田、鈴木(1967)p.62、高橋(2000)pp.378-379
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  4. ^ 野田、鈴木(1967)p.63、大賀(1980)p.180
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  6. ^ 野田、鈴木(1967)pp.65-66、大賀(1980)p.180、高橋(2000)pp.391-392
  7. ^ 野田、鈴木(1967)pp.66-68、大賀(1980)p.180
  8. ^ 野田、鈴木(1967)p.68
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  10. ^ 野田、鈴木(1967)p.61、白鳥町教育委員会(1976)pp.133-135、p.176
  11. ^ 高橋(2000)pp.140-142
  12. ^ 野田、鈴木(1967)p.61、高橋(2000)pp.142-143
  13. ^ 野田、鈴木(1967)pp.61-62、白鳥町教育委員会(1976)p.226、高橋(2000)pp.142-143
  14. ^ 白鳥町教育委員会(1976)pp.226-228、上村(1984)p.20
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