石徹白騒動
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石徹白豊前と権威
かねてから隠居していた石徹白豊前の父、大和は、宝暦4年閏2月8日(1754年3月30日)に死去した。在京していた豊前は急遽帰郷することとしたが、宝暦4年閏2月15日(1754年4月7日)、石徹白豊前は供廻り24-25名を従えて槍や挟み箱を持たせ、白馬に銀の鞍を乗せ、自らは駕籠に乗り、さらに「下に下に」と掛け声をかけるなど、あたかも大名行列を思わせる、父の死直後の人とも思えぬ華やかな行列を仕立て、石徹白入りをしたと伝えられている[45]。
またこの派手な帰郷時に石徹白豊前は、自らのバックに更なる権威があることを誇示したという。豊前はかねてから五摂家の九条家に献金し、九条家出入りを願い出ていたが、宝暦4年の上京時に正式に九条家出入りを認められ、白山中居神社に九条家の紋章入りの提灯二張を拝領した。吉田家と郡上藩に加えて九条家の権威を利用し、石徹白豊前は強権をもって石徹白支配に乗り出すことになる[27]。
強権による石徹白支配
石徹白豊前は自らの父の葬儀も済ませぬ内に石徹白の社人たちを集め、吉田家からの指示として「白山中居神社の社人は吉田家の支配を受け、諸事は石徹白豊前に従う旨」の書状に捺印するように言い渡し、もし従えない場合は神職を取り上げ、神田の百姓とするとした[46]。また上村治郎兵衛に対して外出を禁ずる禁足令を出した上で、豊前は宝暦4年3月4日(1754年4月25日)に郡上八幡に向かい、宝暦4年3月8日(1754年4月29日)、石徹白に戻ってきた。豊前に続いて宝暦4年3月11日(1754年5月1日)、郡上藩寺社奉行の手代、片重半助が2名の足軽を引き連れて石徹白に現れ、先に豊前が禁足令を出していた上村治郎兵衛を、取調べ自体全く行うことなく「吉田家の命により追放欠所とする」と言い渡し、飛騨国境まで連行して追放した[47]。これはかつて上村治郎兵衛が、石徹白豊前が東本願寺に対して行った抗議内容には事実と異なる点があるとして豊前を非難したことに関する報復とともに、石徹白の支配をもくろむ豊前にとって、社人の中でも長老格であった上村治郎兵衛が煙たい存在であったことと、吉田家と石徹白豊前の支配を受け入れようとしない社人たちへの見せしめの意図があったと考えられる[48]。
また石徹白豊前は、父である石徹白大和が伐採したことで問題となった白山中居神社の造営林を伐採し、用材を売却していた。もともと造営林は白山中居神社の造営、修復用の材木を伐採する林であり、私用での伐採は禁じられていた。そのため造営林伐採をとがめられた大和は神主交代の話が取り沙汰されることになった。しかし豊前は人を雇って堂々と造営林を伐採するとともに、他人の持ち山にまで伐採を強行するに至った。石徹白の社人らはこの豊前の行動を郡上藩寺社奉行に訴え、神主の交代を要求したが、奉行の根尾甚左衛門は、証拠の無い訴えを取り上げるわけにいかぬとし、社人らの訴えを全く取り上げようとしないどころか、逆に石徹白豊前を中傷したとして社人らを叱責した。上村治郎兵衛追放と造営林伐採問題について全く吟味しようともしないことから、豊前と郡上藩が結託していることに気づいた反豊前派の社人らは、吉田家の権威を背景に石徹白支配を強権的に押し進める石徹白豊前の行動を抑えるためには、幕府に直接訴えるしかないと判断した[49]。
越訴
宝暦4年8月27日(1754年10月13日)、石徹白では神主に次ぐ神職である神頭職の杉本左近、社人総代の上村重郎兵衛、桜井吉兵衛の3名は、江戸で幕府寺社奉行の本多忠央に訴状を提出した。訴状の内容は、まず白山中居神社の造営林の伐採問題と上村治郎兵衛の追放問題を取り上げ、神主の石徹白豊前は突然吉田家の門弟を名乗り、吉田家の権威を笠に着て石徹白を自らの思い通りにしようとしていると豊前の無法ぶりについて指弾し、更に石徹白の神主職は世襲ではなく、神職の中から選ばれて任命されるものであることを指摘したものであった[50]。
杉本左近らが幕府寺社奉行に提出した訴状は一応受理された[51]。しかし郡上藩主金森頼錦の実弟である本多兵庫頭の養父は幕府寺社奉行の本多忠央で、金森家と本多家とは縁戚でありお互い親しい関係にあった[52]。石徹白の社人らから訴状が提出された話はさっそく本多家から金森家へと伝わり、両家間の話合いによって訴状は金森家に渡され、吟味自体も金森家側が行うこととなった。訴状を提出した杉本左近らはこれまで郡上藩が訴えを全く聞き届けてもらえなかった経緯を説明し、金森家ではなく寺社奉行の吟味を受けたいと主張したが聞き届けられなかった[51]。
江戸の金森家に出頭した杉本左近ら3名を尋問したのは、金森家家老の伊藤弥市であった。伊藤は型通りの取調べを行った後、吟味を改めて郡上八幡で受けるようになだめすかし、足軽2名の護衛をつけて杉本らを郡上八幡へ送り返した[53]。しかし、宝暦4年9月27日(1754年11月11日)、郡上八幡に到着した杉本ら3名は、幕府の寺社奉行に越訴を行ったのは不届きとして、吟味が行われることなく手錠をかけられた上に宿預けを言い渡され、更に5名の監視がつけられるという厳重な監禁状態に置かれることになった。その上、3名のうち上村重郎兵衛、桜井吉兵衛の2名は宝暦4年(1754年)12月末、石徹白豊前のもとに預けられて豊前による激しい糾明を受けることになった。上村重郎兵衛、桜井吉兵衛の2名は「命のある限り豊前には決して従わない」と激しく抵抗し、結局宝暦5年(1755年)2月末、上村重郎兵衛、桜井吉兵衛の2名は郡上八幡に戻された。そして宝暦5年5月3日(1755年6月12日)には杉本左近、上村重郎兵衛、桜井吉兵衛の3 名は入牢が言い渡された[54]。
石徹白豊前の反論
杉本左近らが江戸から郡上八幡に送還された宝暦4年(1754年)9月、杉本左近らの訴えに対する石徹白豊前の返答書が郡上藩寺社奉行の根尾甚左衛門に提出された。このことから杉本左近らの幕府寺社奉行に対する訴えに対する取調べは、石徹白豊前側に対しては一応行われたと考えられている[55]。
石徹白豊前は杉本左近らの訴えに対して、自らはあくまで石徹白の社人の総意に基づき行動しており、石徹白を思い通りに支配しようとする意図は無いと主張した。また上村治郎兵衛の追放についても、悪僧の恵俊と上村治郎兵衛が結託して、威徳寺を掛所に指定しようと画策した結果、石徹白内が混乱したので、吉田家と東本願寺に訴えた結果、東本願寺から恵俊は高山での蟄居処分を言い渡され、石徹白の秩序を乱した上村治郎兵衛については吉田家から追放処分を言い渡されたので、それに従ったまでのことで、上村治郎兵衛の跡目は養子に継がせたと、自己の処置の正当性を主張した。また神主職はここ九代に渡って世襲されており、神職の中から選ばれるものであるとの主張は事実に反すると、自己の立場についても正統性を主張した[56]。
また、石徹白豊前の返答書とほぼ同時期に出されたと考えられる、豊前派の桜井大膳が郡上藩寺社奉行に提出した書状がある[† 2]。内容的には石徹白豊前を訴えた総責任者である杉本左近の立場や言動について厳しく非難したものであり、石徹白豊前の返答書を補完する内容であった[57]。
注釈
- ^ 石徹白豊前については大賀(1980)のように上村豊前とする文献もある。ここでは幕府評定所の判決で用いられ、野田、鈴木(1967)、白鳥町教育委員会(1976)、上村(1984)、高橋(2000)など多くの文献で採用されている石徹白豊前を用いる。
- ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、桜井大膳の書状は現存しているものは写しであり、また宝暦4年8月の日付が記されているが、これは杉本左近らが幕府寺社奉行に訴状を提出した月と同一であり、訴状の内容がわからない状態でその内容について反論する書状を出したとは考えにくい点などから、更に慎重に検討する必要があるとする。
- ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、後の目安箱への箱訴状などから石徹白から追放された世帯数は96軒程度、また石徹白豊前が幕府評定所での尋問で、追放処分後に石徹白に残った世帯は、頭社人4世帯、平社人40世帯の計44世帯程度と証言しており、96世帯と44世帯を合計すると140世帯、あと外末社人が10世帯あったため、当時の石徹白は約150世帯で構成されていたと推定される。
出典
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