江藤直美
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/20 04:03 UTC 版)
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基本情報 | ||||
国籍 | 日本 | |||
生年月日 | 1972年7月12日(50歳) | |||
出身地 | 福岡県北九州市 | |||
ラテン文字 | Naomi Eto | |||
身長 | 186cm | |||
体重 | 62kg | |||
血液型 | AB型 | |||
選手情報 | ||||
所属 | 龍谷大学 | |||
愛称 | ナオ | |||
役職 | 監督 | |||
ポジション | MB | |||
指高 | 242cm | |||
利き手 | 右 | |||
スパイク | 307cm | |||
ブロック | 298cm |
来歴
福岡県北九州市出身。中学校1年生からバレーボールを始める。1987年、第1回全国都道府県対抗中学バレーボール大会に熊本選抜で出場した。決勝トーナメントの初戦で神奈川に敗れたが、身長が183cmあり女子の参加選手中最高身長であったことから、オリンピック有望選手に選出された。
扇城高校(現・東九州龍谷高校)では3年連続インターハイに出場し、高校2年の時には春高バレーで準優勝。1989年世界ユース選手権3位、アジアユース選手権優勝、1990年アジアジュニア選手権優勝(サーブ賞)を経験した。1991年に日立に入団し、同年ワールドカップで全日本代表に初選出された。
186cmの高さを生かしたブロックで大いに期待されたが、1992年バルセロナオリンピック、1996年アトランタオリンピックは直前で代表メンバーから外れた。葛和伸元監督就任後はレギュラーとして活躍し、2000年には全日本の主将を務めたが、同年5月に練習中にレシーブをした際に右ひじを壁に強打し、じん帯断裂の怪我を負う。2000年シドニーオリンピック最終予選(6月17日開幕)は強行出場したものの思うようなプレーができず、日本は3勝4敗の6位に終わり五輪出場権を逃した。江藤は結局三回オリンピックに出場するチャンスが有りながら、一度もオリンピックに出場できなかった。
2001年日立の廃部に伴い東洋紡に移籍するが、2002年東洋紡の廃部でJTマーヴェラスへ移籍。
2005年1月22日、第12回Vリーグの日立佐和リヴァーレ戦でブロック3得点をあげ、Vリーグ通算ブロック決定本数を601に伸ばし、史上初めてブロック決定本数600の大台に乗せた。
2007年5月開催の黒鷲旗大会を最後に、16年間の現役生活を終えた。
引退後は、愛知学院大学に進学[1]、健康科学を専攻[1]。名城大学男子バレーボール部コーチ[2]。中学校講師[1]を経て、現在は日本体育協会上級コーチ[1]、日本バレーボール協会発掘育成委員[1][3]、龍谷大学女子バレーボール部監督[1][4]を務めている。
球歴
所属チーム
- 扇城高等学校(現・東九州龍谷高等学校)
- 日立(1991-2001年)
- 東洋紡オーキス(2001-2002年)
- JTマーヴェラス(2002年-2007年)
- ^ a b c d e f サイファホームページ(三屋裕子と仲間たち)
- ^ JVA. “平成24年度 JVA男子・女子エリートアカデミーオーディション募集要項”. 2012年7月4日閲覧。
- ^ 日本バレーボール協会(事業本部部員・委員会委員名簿 2015年8月18日現在)
- ^ 龍谷大学女子バレーボール部ホームページ(部員・スタッフ紹介)
- ^ Vリーグ機構. “選手別成績”. 2015年2月14日閲覧。
固有名詞の分類
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