比自山城の戦い その後

比自山城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/16 09:34 UTC 版)

その後

その後の伊賀勢は組織的に抵抗できなくなり、北畠信意に蟄居を命じられていた下山甲斐守は国見城にて伊賀勢に加勢し玉砕した[3]。その後森田浄雲が挙兵したが衆寡黙敵せず討ち死にした。その後百地丹波も挙兵したものの破れ、以降の動向は不明(高野山で謹慎すると偽って根来衆に入ったという説や、討ち死にしたという説、名張に住み続けたという説など諸説あり定まらない)。

最終的に柏原に篭っていた伊賀勢は滝野吉政の嫡男・滝野亀之助を人質とするという条件で開城し、城は順慶が接収した。ここを以って天正伊賀の乱は終結した。

参考文献

  • 『伊賀・大和・熊野 つゝ井筒歴史遊歩』- 第一章 安土の巻
  • 『校正伊乱記』
  • 『三国地誌』

関連項目


  1. ^ a b c d 『校正伊乱記』
  2. ^ a b 『三国地誌』
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『伊賀・大和・熊野 つゝ井筒歴史遊歩』- 第一章 安土の巻


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