核兵器の歴史 最初の水素爆弾

核兵器の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/08 15:51 UTC 版)

最初の水素爆弾

ハンガリー人物理学者のエドワード・テラーは、水爆の起爆方法の研究に従事し、"水爆の父"と呼ばれている。

核分裂兵器を核融合過程の点火に使うことができるかもしれないという考えは、1941年にまで遡る。

真偽のほどは分からないが、日本の京都大学理学部の萩原篤太郎が1941年5月の講演のなかで、U235の爆発的連鎖反応についてと、それを起爆剤とした水素の熱核融合のアイデアを議論したと言われている[38]。 1942年には、バークレーカリフォルニア大学でオッペンハイマーが開催した、最初の核兵器の開発に関する核物理学理論のカンファレンスにおいて、参加者の一人のエドワード・テラーは、エンリコ・フェルミの提案した、太陽の力そのものと同じ反応を用いる超強力爆弾の開発を進めるべきだと強硬に主張した[39]。テラーは共産革命下のハンガリーで少年期を過ごし、それ以来共産党をそしてソ連を恐れ憎んでいた。ソビエトの脅威に対抗することのできる超強力兵器の開発を、自分の天命だと考えていたのである[40]

しかし当時は、核分裂爆弾の開発のほうが容易で、水素爆弾よりは第二次世界大戦の終了までに完成できる可能性が高いと考えられていた。しかし、実際のところ"普通の"原子爆弾の開発すらその後数年間の莫大な研究を要したので、実現可能性に乏しい超強力爆弾にはあまり関心が向けられなかった。テラーだけが、計画のリーダーのオッペンハイマーとハンス・ベーテの指示に逆らい、水爆の研究を続けていた。

日本への原爆投下の後、ロスアラモスの多くの科学者たちは、最初の原爆よりも強力な兵器を作るという考えに反対し、研究所を去っていった。彼らの疑問は、一部は技術的なもの、つまり、そのような兵器の設計がうまくできるのかどうか分からなかったというものもあるし、そのほかには道徳的な疑問もあった。そのような超強力兵器は、科学者たちの考えによると、戦場では使えず、それゆえ一般市民に対する虐殺用の兵器としてしか使えないものであるからだ。

ベーテ、そしてフェルミのような多くの科学者たちは、アメリカはそのような兵器を作るべきではなく、もしも開発すればソ連による水爆の軍拡を招くと主張して反対した。一方で水爆の推進者たち、テラーやアーネスト・ローレンスルイ・アルヴァレらは、そのような兵器の開発は避けられないことであって、水爆の否定はアメリカ国民の防衛を否定するものであると主張した。

このとき、マンハッタン計画を継承したGeneral Advisory Committeeのリーダであったオッペンハイマーは、アメリカ原子力委員会において水爆の開発をしないように提言した[41]。その理由は、オッペンハイマーの考えによると、水爆技術の開発によるソ連に対するアドバンテージは一時的なものであり、また合衆国の原子力開発のリソースを水爆の開発に向けるよりは、強力で数多くの原爆の開発・生産に向けたほうがより効率的であるとの考えたからであった。より多くの原子爆弾を所持したほうが、巨大で扱いにくく、限られた標的しか破壊できない強力な水爆を所持するよりは有効だ、というのである。

それに加えて、もしそのような強力な兵器が米ソ両国によって開発されたのならば、それがアメリカに対して使われたときのほうがより破壊的な効果をもたらすと考えられた。それは、アメリカのほうが都市の工業の集積度と人口密度が高い地域が多く存在し、巨大兵器による理想的な標的となるからである。

1952年のアイビー作戦での最初の水爆の火球

結局、トルーマン大統領は、ソ連による1949年の核実験を受け、最終決断を下した。1950年1月31日、トルーマンは水爆開発の強硬計画を表明した。テラーの提案した原子力の第二研究所、ローレンス・リバモア国立研究所が建設され研究が始まった。しかしこの時点では、水爆の正確なメカニズムは未だ知られていなかった。"伝統的な"水素爆弾—核分裂の熱を核融合物質の点火に使うもの—は動作しえないと思われていた。しかし、ロスアラモスの数学者スタニスワフ・ウラムの洞察によって、原子爆弾と核融合物質を爆弾の中の別の場所に配置し、原子爆弾の圧力を核融合物質を起爆する前段階の圧縮に使えば核融合兵器が実現可能だということが示された。

テラーはこの考えを更に押し進め、"George"と名付けられた強化型の核分裂実験 (少量の核融合燃料を用いて核分裂反応を強化した装置) を行い重水の核融合の実現可能性を確かめ、その後真の多段階水爆、テラー・ウラム型水爆実験を実施した。オッペンハイマーやベーテといった多くの科学者たちは最初この兵器に反対したが、その後この種の兵器の開発が止められないと分かると考えを覆した。

最初の核融合爆弾実験は、1952年11月1日アメリカでアイビー作戦としてエニウェトク環礁で実行された[42]。コードネームはマイク (Mike) と名付けられた。マイクは液体の重水素を核融合燃料として使い、原子爆弾を起爆装置として用いるものであった。この水爆はプロトタイプであり、実戦兵器としては使用できないものだった。というのは、6mもの高さと64tもの重量があり、それに加えて重水素を液体に保つための、10tを超える重量の冷却装置まであったので、その当時のいかなる飛行機によっても運搬できなかったからである。

マイクの爆発は10.4メガトンのエネルギーを放出した。これは長崎に落とされた原爆の450倍を超えるものである。水爆の設置されたエルゲラブ島は跡形もなく消滅し、直径1.9km、深さ50mにもなるクレーターが水中に形成された。トルーマンは最初、次の大統領選挙への影響を考え実験について秘密にしようとしたが、1953年1月7日、トルーマンはメディアを通じて水爆開発の成功を示唆した。

テラー・ウラム型水爆の基礎。原爆は核融合燃料の圧縮と起爆に使用される。

ソ連はそれに負けることなく、1953年8月12日にアンドレイ・サハロフによって設計された最初の熱核兵器を爆発させた。これは西側では"Joe-4"(RDS-6)として知られている。ソ連の水爆開発はアメリカ政府と軍部両方に、ソ連が既に運搬可能な水爆を所有しているのではないかとの懸念を抱かせた。しかし、ソ連の最初の"水爆"は真の水爆ではなく、数百キロトンのエネルギーを放出しただけだとされている。しかし、この兵器の完成はソ連にとって強力なプロパガンダの道具となり、技術的な違いはアメリカの一般市民と政治家に無視された。

ソ連の水爆実験がマイクのすぐ後に行われたので、結局のところアメリカの水爆開発は避けられなかったのだ、水爆開発の推進は正しかったのだ、とテラーら水素爆弾の推進者たちは自らを正当化した。当時は、マッカーシーによる赤狩りの真っ最中だったので、オッペンハイマーら水爆の反対者はロスアラモス研究所を追われてしまった。

1954年3月1日、アメリカはリチウムの同位体を用いた最初の航空機に搭載可能な小型の熱核兵器を爆裂させた。この水爆はキャッスル・ブラボー実験の"シュリンプ (Shrimp) " (小エビの意) という名前の爆弾で知られている。実験はマーシャル諸島にあるビキニ環礁で実施された。水爆は15メガトンの出力があり、想定より倍以上も大きいものだったため、アメリカの歴史において最悪の放射性物質による被害をもたらした。 想定より大きな爆発と、悪い天候状況、そしてアメリカの危険区域の設定の狭さから、1万平方キロメートル以上に渡って死の灰が降りそそぎ、周囲の人間に健康被害を及ぼした。この中には日本の漁船第五福竜丸やマーシャル諸島の住人も含まれている。これらの地域は現在でも人が住んでいないが、かつての住人は今でも放射能による癌や障碍に苦しめられている。第五福竜丸の事件は日本でも大きな反響を呼び、反核運動が起こるきっかけとなった。

水爆の時代の到来は、一般の人々と軍人の両方にとって、核戦争についての考え方に深刻な影響を及ぼした。それまでは、原子爆弾による核戦争の影響はある程度限定されうると考えられていた。原爆が航空機から投下され、一つの大きな都市を破壊できるのみであるとするなら、原爆は先の大戦での空爆 (例えば日本やドイツに対して行われた激しい空襲) の技術的な拡大に過ぎないと考えられるからである。そして、そのような兵器が世界規模での死傷者を生みだす、というのは単なる深刻ぶった誇張だと考えられていた。

当時のたった10年ほど前にも一部の人は、原子爆弾の力によって、事故か意図してかによらず人類が地上の全ての生命を終わらせる力を持ってしまうかもしれないと心配していた。しかし、当時のテクノロジーは人類がそんな力を持つところまでは至っていなかった。それでも、水爆のとてつもない力によって人類は世界を破滅させる力にまた一歩近づいたように思われた。

キャッスル・ブラボー事件は、核戦争の生存可能性についての多くの疑問を生じさせた。米ソ両国の政府の科学者は、核融合兵器は核分裂兵器と違って危険な放射性の副産物を生成しないため、より"綺麗"だと主張した。技術的には真実だが、これは重大な問題を隠してしまっている。多段階の水爆の最終ステージでは、核融合によって生成される中性子を使って水爆の周囲を包む天然ウランを分裂させる。水爆は、この核分裂によって核出力の半分以上のエネルギーを得ているのである。

水爆における核分裂段階は単独で使用されたときより"汚い"、つまりより多くの放射性降下物を生みだすと考えられている。この事実は、ブラボー実験の後にできた高くそびえ立つような死の灰の雲ができたことによって確かめられた。1955年にソ連が初のメガトン級爆発実験を行なったとき、一般人も政治家たちも"限定"核戦争はもはや不可能だと考えた。都市や国が直接の核攻撃対象とならなくても、普段からの大気の流れによって放射性降下物の雲と危険な核分裂の副産物が四散し、世界中の目標外の都市の土壌や水の中に入り込んでしまうからである。

世界規模での核兵器の打ち合いによる放射性降下物の影響はいかほどかという考察が、世界中で始められた。この中には、核兵器を保有しておらずそれゆえ直接の核兵器の脅威のない国も含まれていた。世界の運命は今や核兵器を生産しうる大国の運命と結び付くこととなったからである。

核の冬も参照。

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