意志の勝利
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『意志の勝利』(いしのしょうり、ドイツ語: Triumph des Willens)は、1934年にレニ・リーフェンシュタール監督によって製作された記録映画。同年に行われた国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の第6回全国党大会の様子が記録されている。
注釈
- ^ 現代の視点から客観的に言い換えると、「第一次世界大戦が勃発してから20年後 - ドイツが休戦協定に調印してから16年後 - ヒトラーが首相に就任してから19か月後」となる。
- ^ この旗も1935年までハーケンクロイツ旗とともに国旗として用いられた。意匠はドイツ帝国のものと同じ。ドイツの国旗を参照。
- ^ 現在のニュルンベルク空港よりも南東にあった旧飛行場。跡地はマリーエンベルク市民公園になっている。
- ^ このパレードのシークエンスで流れる曲は、前作『信念の勝利』のオープニングクレジットで流れる合唱曲を行進曲風に編曲したもの。
- ^ a b c d e f g h この映画に登場する人物の演説の内容は、Triumph des Willens Ein DVD-Abend Tekki 2005(ドイツ語)、インフィールド『レニ・リーフェンシュタール』148-167頁、などを参考にした。
- ^ 日本人の姿も見える。ちなみに1934年9月当時の駐ドイツ日本大使は永井松三である。
- ^ Bewegung (運動) は、ここでは die nationalsozialistische Bewegung (国家社会主義運動)のこと。
- ^ 1918年に起こったバイエルン革命を起点にしている。
- ^ この第6回党大会の開催時には、シュペーアがペルガモンの大祭壇を模して設計した祭壇は、まだ完成していなかった。サーチライトを多用した「光の大聖堂」の壮大な演出が行われたのは、1936年の党大会以降である[4]。1934年の党大会を記録したこの映画には「光の大聖堂」の映像はない。
- ^ 赤色戦線(Rotfront)すなわち共産主義勢力と反動勢力(Reaktion)はナチスが敵視する勢力の総称。ナチスの党歌『旗を高く掲げよ』の歌詞にも「Kameraden, die Rotfront und Reaktion erschossen」とある。
- ^ 原語は Volksgenosse (国民同胞)で、ナチス時代に多用された語。女性形は Volksgenossin で、ヒトラーやゲッベルスらの演説はしばしば「Deutsche Volksgenossen und Volksgenossinnen」という呼びかけから始まる。
- ^ この9か月後の1935年6月から、18歳から24歳までの男子全員が国家労働奉仕団に入ることが義務づけられた。
- ^ 前年の第5回大会から、大会期間中の一日が必ず「ヒトラー・ユーゲントの日」に当てられるようになった[5]。
- ^ スタンドにSAAR (ザール) の人文字が見える。ザール地方が住民投票の結果としてドイツに返還されるのは、この翌年の1935年である。
- ^ 場内にいるのは男子ばかりのように見えるが、ドイツ女子同盟 (BDM) と思われる女子の一団がスタンドの中央を占めている光景が一瞬映る。
- ^ 第一次世界大戦末期の1918年6月に、当時のフランス首相クレマンソーは議会の演説において、次のような言葉で戦争を完遂する決意を表明した。「我々はパリの前で闘う。パリの中で闘う。そしてパリの後ろで闘う。」議場でこれを聞いていたチャーチルは、名演説として知られる1940年の彼の演説の中で似た言い回しを用いている。
- ^ リーフェンシュタールの自伝の記述によると、撮影当日は悪天候だったため、このシークエンスの撮影に失敗した。そこでカットすることに決め、そのことを訪ねてきたライヒェナウに説明すると、ライヒェナウは激怒し、ヒトラーに注進に及んだという[6]。結局、このシークエンスはウーファがニュース用に撮影した映像を使って間に合わせた[7]。また後日、この騒ぎの埋め合わせに、国防軍だけを撮影した映画『自由の日』を製作することになった。
- ^ 取材のために現場にいたウィリアム・シャイラーは、この時の印象を日記に記している。「ヒトラーは今日、残虐な粛清の後に初めて突撃隊と顔を合わせた。大演説の中でヒトラーは、彼ら5万人に対してレームの『反乱』の責任を『赦免』した。スタジアムには、かなりの緊張感が漂っていた。気が付くとヒトラー個人のS.S.ボディガードが大挙してヒトラーの前に整列して、彼と褐色シャツの集団とを隔てていた。我々はこの5万人の褐色シャツの中にリボルバーを構える者が一人ぐらいはいるのではないかと思ったが、誰もいなかった[8]。」
- ^ この「ルッツェ→ヒトラー」という演説の順序は、実際には逆で、まずヒトラーのレーム事件に関する演説があり、それを受けてルッツェが突撃隊を代表してヒトラーへの変わらぬ忠誠を誓う、という順序だった[9]。
- ^ 約2か月前の6月30日に起こったレーム事件を指す。
- ^ 以下、行進する部隊の名称は、隊旗のデザインや服装などから明らかに識別できる範囲で記す。
- ^ 同じ突撃隊として複数の部隊が行進する。1923年の第1回党大会以来、突撃隊旗はミュンヘン第1連隊、第2連隊、ニュルンベルク連隊、ランツフート(Landshut)連隊の4つの隊に授与されるのが慣例だった[10]。
- ^ トリオの部分は Hohenfriedberger Marsch (ホーエンフリートベルク行進曲)。
- ^ 映像では判然としないが、エーデルヴァイスの紋章ならば、この部隊は山岳猟兵と思われる。
- ^ ドイツはヴェルサイユ条約で軍事力を制限されたが、空軍についてはドイツ航空スポーツ連盟など別の名称の組織で温存を図った。この翌年1935年にドイツ再軍備宣言をして公然と空軍を名乗るようになる。
- ^ 実際には、この国家労働奉仕団の行進だけが9月6日の午後に行われた。他の部隊は9月9日である[11]。そのためヒトラーの服装が異なっている。ちなみに、この国家労働奉仕団の次の親衛隊の行進シーンで、ヒトラーの服装が途中で入れ替わっている。
- ^ 原文は„die ewige Flucht der Erscheinungen nunmehr endgültig abgelöst wurde von einem ruhenden Pol“。ちなみにシラーの詩『散歩』(Der Spaziergang 1795年)に„Sucht den ruhenden Pol in der Erscheinungen Flucht“(絶え間ない逃走の中に安定した極を求めよ) という一節がある。ヴァイマル共和政が成立した1918年からヒトラーが首相に就任する直前の1933年までの15年間に、のべ14人の首相が交替している。
- ^ レニ・リーフェンシュタールが映画の創作性に全体として寄与したと思われること、また、映画のオープニングクレジットにレニ・リーフェンシュタールという実名が表示されていること、の2点が適合する。ただしこの映画はノンフィクションであり、監督自らが主演したチャップリン映画とは、監督が創作に寄与した度合いに違いがある。
出典
- ^ 田野大輔 2003, pp. 207.
- ^ A Guide to the Annual Nazi Party Congress ("Parteitag") in Nuremberg, 1934 実際の第6回党大会のスケジュール (英文)
- ^ 芝『ヒトラーのニュルンベルク』、114頁。
- ^ 芝『ヒトラーのニュルンベルク』、134頁。
- ^ 平井『ヒトラー・ユーゲント』、54頁。
- ^ リーフェンシュタール『回想』、上巻231頁。
- ^ 平井『レニ・リーフェンシュタール』、143頁。
- ^ William Shirer:Berlin Diary(英語)、NUREMBERG September 9
- ^ 芝『ヒトラーのニュルンベルク』、120頁。
- ^ 阿部良男『ヒトラー全記録』、95頁。
- ^ 芝『ヒトラーのニュルンベルク』、116-117頁。
- ^ 最高裁判決(平成20(受)889) モダン・タイムス事件の最高裁判所判決
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