恩賜のたばこ
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皇室とたばこ
皇室とたばこの関係は1883年(明治16年)から1904年(明治37年)まで日本橋のたばこ製造業柳屋が、宮内省の命により刻みたばこ、1894年(明治27年)からは紙巻たばこをそれぞれ製造したことから始まる[25]。
1894年(明治27年)には岩谷商会に恩賜煙草製造の許可を与えて、日清戦争で出征する兵士に下賜された[26]。
1904年(明治37年)には大蔵省専売局によるたばこの製造の官営化とともに皇室用たばこの製造も専売局に移り、岩谷商店の恩賜煙草製造ラインを引き継ぎ、東京第一煙草製造所に移された。その同じ年に専売局は御料たばこを制定した。御料たばことは天皇・皇后・皇太后専用のたばこである。同じ皇室用に作られたが、皇族用及び下賜用および皇室・宮内省の接待用に作られたたばこは特製たばこと呼ばれた。下賜用のたばこも御料たばこと同じ作業順序・注意事項で作られた(材料葉は必ずしも同じではない)。御料たばこと特製たばこは1910年(明治43年)からは専用工場で作られるようになった。御料たばこの葉は専用葉、特製たばこは当時の専売局製最高級たばこ「不二」と同じ葉を使用した。
大正天皇はたばこが好きで、大正天皇専用たばこの種類も多く、各皇族家それぞれにも専用たばこが作られた。御料たばこおよび特製たばこ専用工場は淀橋工場に移された。昭和天皇はあまりたばこを吸わなかったが、大正天皇の供養用や宮内省接待用に皇室専用たばこは製造が続けられ(大正までは接待用と下賜用は明確には分かれていなかった。)、昭和に入ってからは下賜専用のたばこも製造されるようになった。いわゆる「恩賜のたばこ」専用規格品はここに始まる。
太平洋戦争後はGHQの命令で宮家専用の特製たばこの製造はなくなり、接待及び下賜用の特製たばこだけが作られることになる。下賜用(恩賜のたばこ)は特製たばこ1号とされ紙巻たばこには一本一本に16葉の花弁の表菊文様が入り、箱には黒字で「賜」の文字(初期には金箔で「御賜」の文字)が入り、宮内庁接待用の特製たばこ2号には横菊(上の画像参照)が入り、箱は無地である。包装は箱と缶がある。
1968年(昭和43年)以降には皇族用の14花弁の裏菊の紋が入った特製たばこ3号も存在する[25]。
- ^ 日本専売公社[1964:622-624]
- ^ 共同通信ニュース速報 (2005年6月7日). “恩賜タバコを廃止へ 和菓子で代替、宮内庁”. タバコ関連ニュース2005 (洲本市禁煙支援センター)
- ^ 毎日新聞ニュース速報 (2005年6月7日). “<恩賜タバコ>来年度までに廃止へ 禁煙の高まりを考慮”. タバコ関連ニュース2005 (洲本市禁煙支援センター)
- ^ “弐、天狗の岩谷”. 明治のたばこ王 岩谷松平. たばこと塩の博物館. 2012年6月18日閲覧。
- ^ 「JACAR (アジア歴史資料センター) Ref.C06060833600、明治27年8月〜10月 「着電綴(四)」 (防衛省防衛研究所) 」(岩谷松平発 川上参謀次長宛 恩賜煙草製造の件)
- ^ 「JACAR (アジア歴史資料センター) Ref.C06060996200、明治28年2月〜3月 「着電綴(八)」 (防衛省防衛研究所) 」(28,3,1 恩賜の煙草御用願上け候)
- ^ 日本専売公社[1964:625]
- ^ NHKニュース速報 (2005年6月8日). “宮内庁 「恩賜のタバコ」 支給取りやめへ”. タバコ関連ニュース2005 (洲本市禁煙支援センター)
- ^ 朝日新聞ニュース速報 (2005年6月2日). “恩賜のタバコ、支給やめます 喫煙率低下で、お菓子に”. タバコ関連ニュース2005 (洲本市禁煙支援センター)
- ^ 昭和初期、戦争が激しくなるまでは金箔で「恩賜」の文字だった。戦争が激しくなり、製造数が増え、かつ物資不足になって黒字で「賜」一文字になった。-出典 日本専売公社東京工場・工場史編集委員会 編著『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.181、184
- ^ 恩賜(おんし)の煙草を頂戴して…(ブログ「台湾生活…アジアの平和を願って」)
- ^ 松崎敏彌「天皇の基礎知識」『歴史人』No.3、KKベストセラーズ、2010年12月。
- ^ 松本成子「恩賜のたばこはいらない」『婦人新報』1993年4月号、p.22
- ^ 小山正明氏 特別インタビュー
- ^ 名勝負の目撃者(2)天覧試合サヨナラ負け「完璧なホームランやった」 1959年6月25日 巨人-阪神(後楽園)
- ^ 阪神先発・小山正明「天覧試合長嶋サヨナラ弾は完璧本塁打」
- ^ 【巨人】超異例の2局同時中継、選手らに“恩賜の煙草”…初の展覧試合から60年、その舞台裏
- ^ なお、上記のインタビューでは小山元阪神投手がグラウンドに整列した時に煙草が手渡させれたと語っているように聞こえるが、そうだしたらこれは小山氏の記憶違いである。同じく出場した村山実氏によれば煙草は試合後に選手らが宿舎に帰るとそこに届けられていた。彼の回想では皆が広間に集り、古参の選手らがまず一服し、その一人が「これをもろうがために、死んでいった人もおるんやからな」と感慨深げに語ったという。村山や小山ら若手が「戦争帰りの人ら」と呼んで恐れていたベテラン選手の意外な側面であり、雰囲気にのまれた村山氏も煙草に火をつけたという。余談だが、彼は「現役時代に煙草を吸ったのはあれが最初で最後ですわ」と手記を締めくくっており、煙草は健康に良くないという常識はすでにあったようである。村山実の手記 スポーツ・グラフィック「ナンバー」第 51号 1982年5月20日発行 文藝春秋
- ^ a b 財団法人たばこ総合研究センター 編『たばこの事典』山愛書院、2009年、pp.724-725
- ^ 第38回国会 参議院決算委員会議事録 第15号 参議院会議録情報 第38回国会
- ^ 昭和30年代のタバコ屋さん(タバコ屋「橋本菓子店」)
- ^ 天皇家の紋は16花弁の表菊(菊花を正面から見た図)、皇族は14弁の裏菊〔菊の花を裏から見た図)、接待用には葉や茎を含めた菊全体を横から見た図のものが使われる。-出典 日本専売公社東京工場・工場史編集委員会 編著『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.174、186-189
- ^ =日本専売公社『たばこ専売史』第1巻 1964年、P.625
- ^ 日本専売公社東京工場・工場史編集委員会 編著『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.181-189
- ^ a b c d e f 日本専売公社東京工場・工場史編集委員会 編著『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.178-189
- ^ 大下英治「岩谷松平2回目 恩賜煙草と如意が嶽の超大看板 時代を先取りしたのは村井の組織力」『エルネオス』2001年6月号、エルネオス出版社、pp.62-65
- ^ 日本専売公社東京工場・工場史編集委員会 編著『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.178、181、184-185、187-189
- ^ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11080117100、庚分遣艦隊通報綴 海軍大臣官房記録 明治33年(防衛省防衛研究所)」(恩賜品受領の件)
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