平川廃寺跡 歴史

平川廃寺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/08 06:48 UTC 版)

歴史

石標(1977年3月20日建立)
伽藍西側の塔跡付近の土壇

奈良時代中頃に創建され、かつては山城国分寺に匹敵する、奈良時代の南山城地域を代表する大規模な寺院だったと見られる。塔や金堂などの中心建物が火災で焼失し、その後再建されることなく平安時代初期に廃絶したと見られる。文献に記載がなく寺名は地名をとって名付けられた。1975年(昭和50年)11月25日に史跡に指定された。

1943年(昭和18年)頃、瓦が出土することから寺院跡として注目されはじめ、1966年(昭和41年)の発掘調査で建物の瓦積基壇が検出された。続いて、1972年(昭和47年)から1974年(昭和49年)の調査では、塔と金堂の瓦積基壇が検出され、さらにこれらの建物を取り囲む回廊、寺域を区画する築地も確認された。

伽藍配置は、西側に塔、東側に金堂を配置する法隆寺式と考えられる。講堂や中門は確認されていない。塔・金堂を囲む回廊は、東西約81m、南北約72m、寺域は東西約175m、南北約115mと推定される。寺域西側に塔や金堂の中心建物、東側に付属建物を配置していたと見られる。

塔の基壇は直径20cm前後の河原石を立て並べた上に平瓦を横積みにした瓦積基壇で、1辺が17.2mあった。

金堂の基壇は、塔と同じ瓦積基壇で東西が22.5m、南北が17.2mあった。基壇の南辺は、奈良時代末から平安時代初期に南側へ2.2m拡張されている。基壇上では、礎石の据え付け跡が2箇所検出された。

出土した瓦から、創建は奈良時代中頃で、奈良時代末から平安時代初期に修理が行われていることが分かる。しかし、修理後まもなく塔と金堂は火災により焼失し、寺はその後再建されることなく姿を消してしまったと見られる。

藤田智子はこの地(山背国久世郡)に拠点を持ち、建築・芸術分野で高い技術力を有していたとみられる渡来人系の黄文氏氏寺とする説を提示すると共に、軒瓦の分析から同じ山背国の相楽郡で進められていた恭仁宮と同じ瓦が使われており、恭仁宮建設(741年)の頃に国家の何らかの援助を得て建立されたとしている[1]。木本好信は、藤田説を受けて黄文氏と橘諸兄政権の密接なつながりを推定して、橘奈良麻呂の変の背景を論じている[2]


  1. ^ 藤田智子「平川廃寺の軒瓦の展開-竜谷大学調査資料を中心として-」『帝塚山大学考古学研究所研究報告』3号(2000年)
  2. ^ 木本好信「黄文王と橘奈良麻呂」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年 P45-47.


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