小島憲之 (建築家) 小島憲之 (建築家)の概要

小島憲之 (建築家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 14:08 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

経歴

下野国河内郡雀宮(栃木県宇都宮市)生れ、父は幕臣であった。

明治維新後、横浜で外国人に英語を学び、大学南校に入学。アメリカ人教師ハリスに認められ、1873年(明治6年)学校を中退し、ハリス、箕作佳吉とともにアメリカに渡った。1875年、コーネル大学建築学部に入学。1879年に卒業し、学士号(Bachelor of Architecture)を取得した。建築事務所で働いた後、ヨーロッパ、東南アジアを経て、1881年(明治14年)に帰国した[1]。ロンドン滞在時に留学中の辰野金吾(1879年工部大学校卒業)と会ったという[2]

帰国後は東京大学理学部、工部大学校、大学予備門・第一高等学校、東京美術学校(現・東京芸術大学)で用器画、英語を教えた。英語に堪能で、神田乃武浅田栄次とともに英語教育界の三羽烏と呼ばれた[3]夏目漱石も小島の教え子の一人である。また、第一高等学校で長年用器画を担当していたため、伊東忠太塚本靖など、小島に学んだ建築家は数多い。

1885年、湯島聖堂にあった東京図書館を上野に移すことになり、移転計画に関わった(帝国図書館の項を参照)。書籍庫(1886年竣工)はこの時に建てられ、小島の作品として唯一現存する。あまり実作の機会には恵まれず、建築家としては不遇であった。

1918年、日本アルプス登山の途中で急逝、享年62。

子息の小島新吾は建設省営繕局長を務めた。また、建築家西村好時の義父にあたる。

栄典

位階
勲章等

参考文献

  • 新建築臨時増刊「日本近代建築史再考」(1974.10)

関連項目


  1. ^ 高杉造酒太郎『建築人国雑記』P62(1973年)
  2. ^ 森井健介『師と友』P68(1967年)
  3. ^ 森井前掲書P26
  4. ^ 『官報』第4207号「叙任及辞令」1897年7月12日。
  5. ^ 『官報』第5169号「叙任及辞令」1900年9月22日。
  6. ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
  7. ^ a b 『官報』第1816号「叙任及辞令」1918年8月21日。
  8. ^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。
  9. ^ 『官報』第6902号「叙任及辞令」1906年7月3日。
  10. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。


「小島憲之 (建築家)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小島憲之 (建築家)」の関連用語

小島憲之 (建築家)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小島憲之 (建築家)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの小島憲之 (建築家) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS