大辻伺郎 人物・エピソード

大辻伺郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/20 01:16 UTC 版)

人物・エピソード

自殺の前日に大辻は自動車事故を起こしており、事故相手から暴行を受けるなど深刻なトラブルに発展していた。翌朝、大辻は愛人の女性に電話をかけて助けを求める。大辻が自宅のある港区赤坂から徒歩圏内にあるホテルオークラに意味もなく宿泊していたことや、午前5時という時間に電話をかけてきたことなどを不審に思った愛人は、身を案じて大急ぎで大辻の宿泊部屋に駆け付けた。しかしその時既に、宿泊部屋の鴨居に寝巻のヒモをかけて首を吊った状態で死亡していた。電話から僅か15分間の出来事であった。遺書はなかったが、前日と同じ洋服を着たまま死亡していたことや愛人へ電話をかける直前に1人でロビーに行って宿泊代金の支払いを済ませていたことなどから、最初から自殺目的での宿泊であったと断定された。

晩年の大辻は役に恵まれたとは言えず、仕事の行き詰まりではないかと言われたが、1971年に胃潰瘍の手術を受け一時的に仕事の量は減ったものの、元マネージャーの話では10月からテレビの新シリーズが決まっていたし、仕事に再起をかけていたときで今年中には借金の半分は返済できると張り切っていたという。「今度現場で嫌われたらもうチャンスはないと関係者から忠告を受けていたため、自動車事故を起こしたことでせっかくの出鼻をくじかれ手痛いショックを受けて、もうダメだと大辻が一気に人生を諦めたと思えてならない」と語る。

趣味への惜しみない出費で抱えた多額の借金が原因だと言われたが、前年度の収入を考えても大辻にとっては返せない金額ではなく、借り方にしても強引・無茶なことはしなかった。「借金を苦にして死ぬ奴ではない」と友人知人が口を揃えている。大辻の死後、「金を払え」と押しかけたところは一つもなく、中には「(借金は)香典だと思って棒引きにしましょう」と言ってくれる人もいたといい、貸した人間に恨まれていなかったことがうかがえる。

常に一流品を好みカメラなら高級なものを20台以上揃えないと気が済まない性格であった。ドラマで紅茶をかけられるシーンがあり、ほんのワンカットのためにオーダーメイドで高級ブランドのスーツを仕立て、せっかくの一張羅を台無しにしたけれども大辻本人はそれで満足だったとか、用意された衣装に納得がいかず、ギャラよりもはるかに高い衣装をすべて自前で揃えて見事足が出たなど、お金に糸目をつけないエピソードにはこと欠かない。

検察での検死後、大辻の遺志により目(眼球)アイバンクへ献眼され、遺体は順天堂大学医学部附属順天堂医院献体された。このため、多磨霊園にある大辻家の墓誌に大辻の名前は刻まれていない[4]

法名は「芸林院釋司純居士」 である。

喜怒哀楽が非常に激しい性格だったため、共演者・スタッフとよくトラブルを起こした人物でもある。この性格が災いして『次郎長三国志』(1968年版、NET)では、スタッフと大喧嘩してしまい「桶屋の鬼吉」役をわずか4話で降板させられた。この出来事を機に大辻はレギュラー出演の番組が徐々に減らされ、テレビドラマへの仕事はゲスト出演がメインとなった。テレビの仕事量は激減しなかったが、単発出演ばかりになって仕事が不安定化した。また、当時は映画産業が急速に斜陽化していた時期で映画の仕事が激減しており、所属していた大映もこの煽りで倒産するなど、大辻にとっては次々と災難が降りかかっていた時期でもあった。結果、これらの要因が重なって先行き不安になり自殺に追い詰められたとの見方もある。

女性遍歴も多く、中学の同級生だった最初の妻とは20歳で学生結婚するも7年後に離婚。大辻は子供への償いは異母兄弟を作らないことだと考え、パイプカットの手術を行っている。だが、それが災いして2度目の妻とも離婚した。

担任によると「よく人の面倒を見る男で、家出した友達を探すために突然学校を休んだので“警察に任せておけばいいじゃないか”と言うと、彼は”だって先生、かわいそうじゃないか“と言った。そういう優しい男でした」と語っている。

晩年芸名を大辻司郎から大辻しろに改名したのは、自分自身が他人に迷惑をかけてしまう性格なので「しっかりしろ!」の意味合いを含めて大辻“しろ”にしたと11PMで語っていた。

勝新太郎は「金なんか残さなくてもいい、世間的な常識もいらない。役者は芸さえあれば、と言いたいがそれが通用しない世の中になった。彼のように鍛えこんだ芸がいくらあっても、ポッと出の新人にペコペコ頭を下げなきゃならないこともある。それをまた彼は神経が細かいだけにオーバーなくらいにやってしまう。今度のことはそういう自分が見えてきて何もかも嫌になっちゃったんだろう」と語った。

三國連太郎は大辻の死に触れ、「私は大辻さんに学ぶことが多かった。あの才能にはジェラシーを感じたこともある。もうちょっと長生きしていたら……」と惜しんだ。

通夜に参列した加藤嘉は「喧嘩っ早い、仕事をすっぽかす、借金をする、女房はとっかえる。そんな評判だけを背中に負わせてはつらい。大辻は本気で仕事をしようとしていたふしがある。常に自分をギリギリのところに立たせていないと芝居ができないと思っていた奴だ。彼は仕事が始まる初日には背広にネクタイをキチッとしめ挨拶をする男だった」と言っている。

大辻の死から5日後の5月26日、文京区寂円寺で「大辻伺郎を偲ぶ会」が開かれ、伴淳三郎小松方正藤村俊二をはじめ、早稲田大学演劇科時代の友人らが駆けつけた。


  1. ^ 大辻伺郎 コトバンク
  2. ^ 翌年、大辻の役を藤田まことに代えて東映が映画化した
  3. ^ 『読売新聞』1973年5月26日付朝刊、11面、テレビ欄。
  4. ^ 大辻の母も同病院に献体届を提出していたため、墓誌に名前が刻まれているのは大辻の父方の祖父母と父・司郎の3名だけである。


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