多古藩
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領地
領地の変遷
旗本松平勝義の知行地
寛永12年(1635年)に松平勝義が多古に8000石で入った際には、下総国香取郡で多古村など18か村、および上総国武射郡の一部が知行地であった[17]。栗山川を挟み「東五千石」「西三千石」と称された[17]。
多古藩成立後の領地
享保10年(1725年)、初代藩主松平勝以が大坂城代を辞職し、摂津国内の領地を下野国内に移されて以後、多古藩の領地にしばらく変動はなかった[17][注釈 19]。この時期の多古藩領は、下総・上総・下野3か国の7郡43か村にまたがっていた。
上記のうち、下総国香取郡15か村・上総国武射郡7か村の計22村が本領にあたり、栗山川を境に「川西十二か村」「川東十か村」と称した[17]。また上総国内の本領以外の領地は「遠上総」、下野国の領地は「野州領分」と呼ばれていた[17]。
幕末の領地
嘉永3年(1850年)、神代徳次郎逃去事件の処分として領地替えが行われた結果、下総国の本領は5か村となった[17]。
多古:陣屋と陣屋町
保科氏は中世以来の多古城に入ったと考えられる[7]。多古城は、保科氏の転出や、一国一城令を経て破却されたものと考えられる[7]。松平氏が入ると高野前地区に多古陣屋を構えた[7]。敷地は現在の多古町立多古第一小学校の校庭の一部にあたる[25](明治期に陣屋の建物が小学校として使用された経緯による[25])。
『多古町史』によれば、多古村の市街地は「松平氏一万二千石の城下町であるより先に宿場町」であったという[26]。銚子・江戸往還の継立場・宿場である多古宿は幕府の道中奉行の支配を受け、公用の伝馬役を負わされていた[15]。
松平氏の時代、武家屋敷は広沼地区東部の「西屋敷」(地元では「お西」と呼ばれる[27])に置かれたが[7][27]、陣屋からは離れた立地となっている[7]。これについては、多古城時代に造営された侍屋敷が引き継がれたためではないかとする説がある[7]。
陸奥国の飛び地領
陸奥国の領地の支配のため、楢葉郡上郡山村(現在の福島県双葉郡富岡町上郡山)に出張陣屋が置かれた[21]。石川郡・楢葉郡の藩領は明治4年(1871年)3月に磐前県に引き渡された[21]。
注釈
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 『多古町史』では「近世の銚子・江戸往還」とする[2]。
- ^ 街道の開通や多古宿開設について、史料上の裏付けが取れるのは文禄4年(1595年)の道中手形によってである[2]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』の保科正光の項目では「多胡」が使われている[4]。
- ^ 『総州山室譜伝記』では、当時病身で引退状態であった保科正直や、未出生の保科正之も攻め手に加わったと描かれている[7]。
- ^ 『寛政譜』では慶長五年の関ケ原の合戦の叙述に続いて「十一月多胡を転じて信濃国高遠の旧領二万五千石を賜ひ」とある[4]。
- ^ 『寛政譜』の雄久の項では「越中国野々市」であり[8]、『多古町史』でも「越中国新川郡野々市藩」とある[9]。名称については布市藩参照。
- ^ 『寛政重修諸家譜』の土方雄久・雄重の項目では「田子」が使われている[8]。
- ^ 『寛政譜』の雄久の項には「下総国田子にをいて五千石を加増せられ、都て一万五千石を領す」とある[8]。
- ^ 『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版、1996年)p.1302「近世大名配置表」では「多古」に配置された大名として保科氏・久松松平氏を挙げるが、土方氏は記していない[11]
- ^ 『寛政譜』の雄重の項では、「下総国田子の領地をあらため、陸奥国菊多郡のうちにをいて一万石を賜はり、すべて二万石を領し、窪田に住す。其後越中国野々市の封地を能登国羽咋・鳳志・珠洲・能登四郡のうちにうつさる」とある[8]。
- ^ 慶長5年(1605年)には林村での年貢収納に関して何らかの問題が生じたことが保科正光の書状からわかる[7]。
- ^ 康俊の婿養子。
- ^ 『多古町史』でも「神代徳次郎逃去事件」[19]「神代徳次郎事件」[20]など複数の表現がある。
- ^ 神代は、中国人船主周藹亭と、長崎の遊女初紫の間に子供が生まれた際に、金銭の受け渡しを仲介して(一般の日本人は中国人から金品の受領ができないことになっていた)不正な処理を行い、また生まれた子供の身元を偽って届け、成長後は養子・就業先の斡旋をするなどした。長崎会所の乱脈運営が摘発された際(これは、長崎会所頭取・高島四郎太夫(秋帆)の失脚と連動する動きである)、神代の行いも明るみに出、「唐人屋敷門前で磔になるべきところ」減刑された[21]。
- ^ 房総には、下総国香取郡の多古村、南中村、南並木村、南借当村、井野村の5か村が残った[19]。
- ^ 『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版、1996年)p.1302「近世大名配置表」では「1万2000石」のまま廃藩を迎えたと示されている。明治初年に太政官が調査し修史局が編纂した『藩制一覧』には「拝領高壱万弐千石」とある[22]。
- ^ 書籍によっては、嘉永3年(1850年)に表高も1万石に減封されたと記すものもある。たとえば『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)の「多古藩」の項目では、1850年に1万石に減封とある。
- ^ 『多古町史』には「勝以から五代の間は変動はなかった」と記し、嘉永3年(1850年、第7代藩主松平勝行の時代)の領地替えの記述が続く[17]。
- ^ 出典[29]に図版が収められており、動物の頭骨のような形状である。
出典
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- ^ “通史編 第三章>第二節 中世中期―鎌倉時代末期・南北朝期―/五、多古妙光寺の成立と一円法華”. 多古町史(ADEAC所収). 2023年6月4日閲覧。
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- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第三百十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.715。
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- ^ “土方雄久”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年2月25日閲覧。
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- ^ “通史編 第四章>第二節 碁石まじりの支配”. 多古町史(ADEAC所収). 2023年6月4日閲覧。
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- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.279、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.285。
- ^ a b “史跡を巡る【多古地区】”. 歴史のさと多古を歩く. 2022年2月25日閲覧。
- ^ 『房総における近世陣屋』, p. 20, PDF版 38/313.
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第五十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.285。
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