交代寄合の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 00:27 UTC 版)
17世紀前半以後、長く多古の領主となった久松松平家は、徳川家康の異父弟の1人・松平康俊(勝俊)の系統である。康俊の跡を継いだ松平勝政は駿府城代を務め、駿河国内で8000石の知行地を有していた。 寛永12年(1635年)11月、勝政の子の松平勝義が家督を継承した際、駿河国内にあった領地8000石が下総国香取郡・上総国武射郡に移され、多古を居所とした。寛永14年(1637年)に勝義ははじめて知行地入り(参勤交代)しており、これが通例となった(交代寄合)。勝義は大坂城の守衛を務めていた際、落雷を受けて炎上する天守から徳川家康の馬印などを運び出して将軍徳川家綱から賞詞を賜ったという記録がある。 勝義の子の勝忠(勝易)は、家督を継承した際に父の遺領から弟2人に500石ずつを分与して7000石となった。勝忠は書院番頭・大番頭などを歴任し、駿府城代となった延宝4年(1676年)6月に2000石の加増を受けて9000石となっている。
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