右筆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/10 05:49 UTC 版)
江戸幕府
戦国大名としての徳川氏にも右筆は存在したと考えられるが、徳川家康の三河時代の右筆は家康の勢力拡大と天下掌握の過程で奉行・代官などの行政職や譜代大名などに取り立てられたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧・室町幕府奉行衆の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦いで東軍を支持した豊臣政権の右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧・後北条氏の右筆(久保正俊)などであったと考えられている。
徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題について将軍の指示に基づき調査・報告を行った。このために、大藩の大名はもとより、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳であっても、奥右筆と対立することは自己の地位を危うくしかねないものであった。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆の待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した。
- ^ a b “秀吉の側室宛て自筆書状を初公開 名古屋市博物館、病気見舞う”. 東京新聞 TOKYO Web (2021年8月20日). 2021年8月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月20日閲覧。
- ^ a b “若き政宗、覚悟と気概 米沢城主2年目の書状見つかる 戦国武将の駆け引きも”. 河北新報オンラインニュース (2021年7月15日). 2022年5月21日閲覧。
- ^ “秀吉の側室宛て自筆書状を初公開 名古屋市博物館、病気見舞う”. 徳島新聞電子版. 2021年8月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月20日閲覧。
- ^ “第74回日書展受賞者 佐伯司朗先生 インタビュー”. サンスターストーリー. サンスター. 2021年3月2日閲覧。
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