南方録
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偽書説
偽書の可能性は最初に小宮豊隆によって提示され、その後、堀口捨己、桑田忠親などに支持された。根拠として、例えば茶入が重視されていた利休時代に「掛物ほど第一の道具はなし」と記され、また「会」の中にも、記録の時代には死亡している人物が登場しているなど矛盾点が指摘されている。
その後、熊倉功夫によって「会」の分析が行われ、これが『利休茶湯書』(1680)の6巻に収録された「利休百会記」を下敷きにして脚色をほどこされた創作物であるという論証が行われ(熊倉功夫「『南方録』成立とその背景」/『茶湯』11号所収)、現在、研究者の間では偽書である事が定見となっている。
また、南坊宗啓は集雲庵二世を名乗っている。集雲庵開創岐翁紹禎(一休宗純の実子にして弟子)は、正長元年(1428年)の生まれというから(岩波文庫「南方録」補注)、利休誕生の大永2年(1522年)には94歳になっていたことになる。仮にこの頃宗啓が二世を継いだとすれば、宗啓は利休より少なくとも30歳は年長だろうから、利休自刃時には百歳を優に超えていたことになる。2年後には「滅後」を著しているから恐るべき老僧ということになる。これほどの僧が他の記録に現れないという事実から、その存在に疑問を持たざるを得ない。武野紹鴎と親しく交わり「茶話を楽」しんだというが、紹鴎誕生時(文亀2年・1502年)岐翁は既に74歳、30歳を超えて茶を志したという紹鴎と茶話を交わしたとすればこれまた百歳翁ということになり、不自然さは否めない。いずれも宗啓を集雲庵庵主に付会したことにより生じた疑点である。
現代における『南方録』の位置づけ
本書は現代の研究者からは、江戸時代に利休回帰が求められるなかで、「茶道」が複雑に理論化した実態を示す資料として用いられている。いっぽう「茶道」の立場からは、茶道の精神論が到達した一つの頂点として捉えられる(但し『南方録』に見られるような秘伝によって複雑化した茶道体系と、利休の茶はかならずしも同一の物ではない)。
また利休への回帰を目指した際に、理論基盤として禅宗が強調されすぎた点は重要である。この結果茶道史において、村田珠光が浄土宗信徒であり、また北向道陳が日蓮宗信徒である点などが恣意的に無視されてきたという歴史がある(なお近年では利休の師が紹鴎ではなく、日蓮宗徒の辻玄哉であったという説も提示されている(神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店))。
偽書であることが明らかであるにもかかわらず、いまなおこの書を根拠にさまざまなことが語られる。他書には見られぬ「カネワリ法」はこの書を根拠にいまでもいくつかの家元で教えられているし、いま広く信じられさまざまの著述で語られる「利休は大男であった」という説もこの書でしか見られない。専門家の間では「偽書ではあるが、古い伝承も含まれている」との考え方も根強く、例えば茶室研究の第一人者である中村昌生は利休らの茶室を読み解く際にしばしば南方録を引用する。しかしそれらはあくまで茶室を読み解くためのヒントとしての引用であって、南方録の記述そのものを研究対象としているわけではない。ここにこの書に対する研究者たちの態度あるいは距離感といったものがうかがえる。
関連書籍
- 南方録 西山松之助校注 岩波文庫 1986年、ワイド版1995年
- 南方録-現代語全文完訳 水野聡訳 能文社 2006年
- 現代語訳 南方録 熊倉功夫訳・解説 中央公論新社 2009年
- 南方録〈覚書・滅後〉筒井紘一 淡交社 2012年
- 利休聞き書き「南方録覚書」全訳注 筒井紘一 講談社学術文庫 2016年
- 南方録の行方 戸田勝久 淡交社 2007年
- 南方録を読む 熊倉功夫 淡交社 1983年
- 南方録 久松真一校訂 淡交社 1975年、新版刊
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