南方録 概要

南方録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/29 04:22 UTC 版)

概要

書名については二説あり、『茶経』の「茶者南方嘉木」を典拠とする場合は「なんぽうろく」となるが、著者である南坊宗啓の名であるとする場合は「なんぼうろく」と濁音になる。なお、立花家本、円覚寺本とも題箋は「南方録」であり、現代では用字にかかわらず「なんぼうろく」と読むのが一般的である。

本書に登場する「茶道」、「露地」、「懐石」といった用語は、利休時代には一般的に用いられていなかった言葉であると考えられる他、記録の時代には既に死亡しているはずの人物が登場するなど、内容的な矛盾点があり、現在では偽書と考えられている。

著者とされている南坊宗啓は、堺の商人淡路屋の生まれで、堺の禅通寺で得度し、南宗寺集雲庵の住職であり利休の弟子であるとされる。しかし、同時代の他の史料に一切登場しない人物であるなど、架空の存在であると考えられている。現在流布している『南方録』諸本の原本である立花家本を筆写したのは立花実山であるが、現在の研究では『南方録』は実山が博多や堺で収集した資料を編纂して創作された物であると考えられている。なお、この立花家本が実山により筆写したとされるのは元禄3年(1690年)のことであり、これは利休没後100年に当たる。この100年という数字に作為性を読み取る研究者もいる。[1]

全7巻の内、「覚書」から「台子」までの5巻は、貞享3年(1687年)に千家(南方録・奥書)あるいは「利休秘伝茶湯書五巻所持の人」(岐路弁疑・牒)が秘蔵していたものを書写、その後元禄3年に堺の「宗啓肉族、納屋宗雪」所持の2巻「墨引」「滅後」を書写したという。このことにより前5巻と後2巻の成立事情が違うことが察せられ、取り扱いに際して留意すべきである。


  1. ^ 福岡市博物館の南方録には「元禄13年2月28日 百年後学」との記が、また「享保18年正月27日に安藤定房が伊佐幸琢(初代)に書写を許した」との奥書がある。





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