加藤明邦 加藤明邦の概要

加藤明邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 06:41 UTC 版)

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加藤明邦
時代 江戸時代後期
生誕 文化5年6月29日1808年7月22日
死没 安政3年11月2日1856年11月29日
改名 亮之助(幼名)→明邦→紫艶(法号)
別名 孫太郎(通称)
戒名 天光院殿釋宗薫
墓所 京都府京都市東山区五条坂の大谷墓地
官位 従五位下、佐渡守、能登
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
近江水口藩
氏族 加藤氏
父母 父:加藤明允
兄弟 明邦、明遠
正室大久保忠真の娘
明軌(次男)、光禄(五男)、明世(六男)、明実(七男)、稲葉正凝(十二男、稲葉正邦養子)、娘(冷泉為行室)、娘(稲田植乗室)
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生涯

文化5年(1808年)6月29日、第8代藩主・加藤明允の長男として江戸で生まれる。文化12年(1815年)9月27日、父の死去により家督を継いで第9代藩主となる。文政6年(1823年)10月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月6日、従五位下佐渡守に叙任する。文政9年(1826年)7月26日に能登守に遷任した。藩政では百姓一揆や強訴が相次ぎ、その鎮圧に務めた。

文政7年4月2日、日光祭礼奉行を命じられる。天保2年(1831年)2月2日、大坂加番を命じられる。弘化元年(1844年)には江戸城本丸修理に2500両を献上している。弘化2年(1845年)2月5日、次男の明軌に家督を譲って隠居する。その後は文化人として陶器作りや能楽・俳句などを嗜んだという。

安政3年(1856年)11月2日に死去。享年49。

系譜

父母

正室

側室

  • 志津
  • 千代

子女

  • 加藤明軌(次男)生母は宮(側室)
  • 加藤光禄(五男)生母は蔵(側室)
  • 加藤明世(六男)生母は千代(側室)
  • 加藤明実(七男)生母は千代(側室)
  • 稲葉正凝(十二男)稲葉正邦の養子、生母は千代(側室)
  • 冷泉為行室、生母は岩(側室)
  • 稲田植乗室、生母は生母は志津(側室)





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