ワトソン・ウォッシュバーン ワトソン・ウォッシュバーンの概要

ワトソン・ウォッシュバーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:17 UTC 版)

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ワトソン・ウォッシュバーン
Watson Washburn
ワトソン・ウォッシュバーン
基本情報
フルネーム Watson McLean Washburn
国籍 アメリカ合衆国
出身地 同・ニューヨーク
生年月日 (1894-06-13) 1894年6月13日
没年月日 (1973-12-02) 1973年12月2日(79歳没)
死没地 同・ニューヨーク
身長 183cm
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 1965年
4大大会最高成績・シングルス
全英 ベスト8(1924)
全米 ベスト8(1911-13・16・20)
4大大会最高成績・ダブルス
全英 準優勝(1924)
全米 準優勝(1921・23)
国別対抗戦最高成績
デビス杯 優勝(1921)

来歴

ウォッシュバーンは17歳の時から全米選手権に出場し始め、初出場時の1911年から1913年まで3年連続のシングルス・ベスト8に進出した。1913年にはハーバード大学の学生テニス選手として「全米大学対抗テニス選手権」のダブルスに優勝を果たしている。この頃から、彼は同じハーバード大学のリチャード・ウィリアムズとのダブルスで実力を発揮し始めた。その後1916年1920年に全米男子シングルスのベスト8に入ったが、彼はシングルスでベスト4以上の成績を出すことができなかった。第1次世界大戦中はアメリカ陸軍に勤務したため、終戦直前の1918年だけ全米選手権に出場できなかった。

終戦後の1921年、ウォッシュバーンはウィリアムズと組んで全米選手権の男子ダブルス決勝に初進出したが、ビル・チルデンビンセント・リチャーズの組に 11-13, 10-12, 1-6 で敗れて準優勝になった。全米選手権終了後、ウォッシュバーンは初めて男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に起用され、決勝の対日本戦で第3試合のダブルス戦に出場した。ウォッシュバーンとウィリアムズは、デビスカップ初出場だった日本チームの熊谷一弥清水善造組を 6-2, 7-5, 4-6, 7-5 のスコアで退けた。これがウォッシュバーンの唯一のデビスカップ出場であるが、その相手が黎明期の日本であったことから、彼の名前は日本語のテニス文献でも大きな位置を占めている。

ウォッシュバーンとウィリアムズのコンビは、その後1923年全米選手権1924年ウィンブルドン選手権の男子ダブルス決勝に進出したが、いずれも準優勝に終わった。1924年のウィンブルドンで、ウォッシュバーンはシングルスでもルイス・レイモンド南アフリカ)との準々決勝まで進んだ。彼は43歳を迎える1937年まで全米選手権に出場し、その後もシニアのトーナメントで長く活動を続けた。1940年には、45歳以上の選手を対象にした全米シニアテニス選手権でシングルス・ダブルス優勝を果たし、この大会では1942年1944年にもダブルス部門を制した。後に全米テニス協会(USTA)の競技委員を務め、1965年国際テニス殿堂入りを果たす。殿堂入りの8年後、ワトソン・マクリーン・ウォッシュバーンは1973年12月2日に故郷のニューヨークで79年の生涯を終えた。

主な成績




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