ルドヴィコ・カラッチ ルドヴィコ・カラッチの概要

ルドヴィコ・カラッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 12:10 UTC 版)

ルドヴィコ・カラッチ
『ルドヴィコ・カラッチ』の肖像
エミリア派の画家
生誕 (1555-04-21) 1555年4月21日
ボローニャ
死没1619年11月13日(1619-11-13)(64歳)
ボローニャ

生涯

ルドヴィコ・カラッチ『バルゲリーニの聖母』(1588年)油彩、カンヴァス、282 x 188 cm/ボローニャ国立絵画館

ルドヴィコ・カラッチはボローニャで生まれた。その地でプロスペロー・フォンターナの徒弟をした後、フィレンツェパルマヴェネツィアに旅し、またボローニャに戻った。1585年、従兄弟のアゴスティーノ・カラッチアンニーバレ・カラッチと一緒にアカデミア・デリ・インカミナーティという、いわゆる折衷主義(en:Eclecticism in art)の絵画学校を設立・指導したが、学校とはいうものの、事実上は、徒弟を助手にした工房だった。しかし、この学校/工房出身の大勢の折衷主義画家たちが、ローマや他の都市で有名になった。とくに、16世紀後半のボローニャ派と呼ばれる画家たちを助成したわけである。その中には、フランチェスコ・アルバーニグエルチーノアンドレア・サッキグイド・レーニジョヴァンニ・ランフランコドメニキーノ(ドメニコ・ザンピエーリ)らがいた。ルドヴィコ・カラッチは弟子たちに、自然の観察、無理のないポーズに的を絞ったスケッチの練習をさせ、人物を描く時にははっきりした比率を使わせた。弟子たちの中でも、Giacomo Cavedone(en:Giacomo Cavedone)には特に目を掛けた。ルドヴィコ・カラッチはイタリアの絵画、とくにフレスコ画を生き返らせ、それが形式主義的なマニエリスムに包括されたと信じられている。

ルドヴィコ・カラッチ自身の作品は、はっきりしたジェスチャーによってかきたてられる力強い雰囲気と、スピリチュアルな情緒を生み出す光のゆらめきが特徴的である。

ルドヴィコ・カラッチは1619年、ボローニャで亡くなった。

参考文献

  • Babette Bohn Ludovico Carracci and the Art of Drawing Brepols 2004
  • Allessandro Brogi Ludovico Carracci Bologna 2001
  • Andrea Emiliani (ed.) Ludovico Carracci exh. cat. Bologna-FortWorth 1994 (with Essay and catalogue by Gail Feigenbaum)

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