モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国 歴史

モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/26 05:12 UTC 版)

歴史

ロシア内戦の間、モルダビアASSRの領域は白軍赤軍コサックウクライナ人民兵、多数の山賊などの手を12回にわたって行き来した。1920年のボリシェヴィキ勢力の勝利の後、ウクライナSSRの領土になった[1]

建国

自治共和国の設立はグリゴリー・コトフスキー(Grigore Kotovski)を初め多くの活動家[注釈 1]に署名された書簡によって始められた。署名者は多くがベッサラビア出身で、全員がボリシェヴィキの運動家だった。自治共和国の建国は困難な問題になった。ソビエト外交の人民委員ゲオルギー・チチェーリンは設立が時期尚早であり、“ルーマニア人の狂信的愛国主義の拡大”を左右すると考えていた。一方、コトフスキーは新しい共和国は隣接したベッサラビアに共産主義思想を広め、ルーマニアバルカン半島に革命をもたらすチャンスもあると考えていた。1924年3月7日、モルドバ人の自治州をウクライナSSR内に設置することが慎重に決められた。

民族に基づいた自治共和国を作ることは当時のソ連の一般的な方針であり、モルダビアASSRも同じであった。また、ソ連はモルダビアASSRの建国がベッサラビアへの領有主張を補強することを望んだ。

ソビエト連邦においてモルダビアASSRはベッサラビアを手に入れ、ルーマニアに革命を起こす第一歩であった[2]。この目的は1924年のオデッサ・イズベスチヤで明らかにされた。この中でロシアの政治家は「全ての抑圧されたベッサラビアのモルドバ人は自由と人権の光を広める灯台のような共和国の未来を受け入れるであろう。」[3]と語っている。 また、モスクワで発行された本には「モルドバの経済的、文化的発展が始まり、ブルジョワ支配のルーマニアはベッサラビアの維持は出来ないだろう。」[3]と述べられている。

社会主義改革

濃い黄色で塗られているのがモルダビアASSR

この地域は労働力の条件に恵まれたため速やかに工業化され、他のソビエト共和国からの移住が顕著であった。これらの移住者の多くはウクライナ人とロシア人であった。特に1928年には14300人の工業労働者のうち、モルドバ人は600人だけであった。

1925年にはモルダビアASSRは飢饉を乗り切った。

1927年12月、『タイム』誌が報じたところによると、ティラスポリとその他のウクライナSSRの南部都市でいくらかの農民と工場労働者の間に反ソビエトの反乱が起こった。モスクワから兵がこの地に送られ、この反乱を鎮圧した結果4000人が死亡したとされる。当時、クレムリンの公式発表でこの反乱は完全に否定された[4]

モルダビアASSRでの集団農場化はウクライナよりも早いペースで進み、1931年の夏に完了したと報道された。2000家族あまりが国外追放でカザフ・ソビエト社会主義共和国に送られた。

1932年から1933年にかけての、ウクライナではホロドモールとして知られる飢饉では、何万人もの農民が飢餓で死んだとされている。飢饉の間、銃殺される可能性にもかかわらず数千人の住人がドニエストル川を越えて逃げることを試みた[5]。これらの中で最も有名な事件は、1932年2月23日のオラネスチ(Olăneşti)村の事件であり、40人あまりが射殺された。これは生存者によって欧州の新聞各社に報じられることになった。ソビエト側はこれを「ルーマニア人の宣伝活動によって打倒されたクラーク(富農)」の脱走として報じた。

モルドバ人の民族意識の促進

モルダビアASSRの週間新聞Plugarul Roşu(赤農)
1924年7月1日に現れ始めた

現代の言語学者モルドバ語ルーマニア語の間で、主にアクセントと語彙に小さな違いがあるということに同意しているが、モルダビアASSRの中ではモルドバ語がルーマニア語と大いに違うという見解が促進された。また、ベッサラビアのモルドバ人は「ルーマニアの帝国主義者に抑圧されている」と主張し、ルーマニアに対する民族統一主義を促進した。

ルーマニア(ルーマニアブルジョワ文化)の影響から距離を置きソビエト・モルダビア(モルドバ共産主義文化)の言語を保つ努力の一部として、ルーマニアで公式に使われているラテン文字と対照的に、言葉を書くために改良されたキリル文字が使われた。言語学者レオニード・マダン(Leonid Madan)はトランスニストリアとベッサラビアのモルドバ方言に基づき、ロシア語からの借用語とロシア語を基礎にした翻訳借用語を使った文語体系を確立する仕事を課された。

1932年、全ソ連で言葉をラテン文字に移す動きがあり、ラテン文字とルーマニア語の書き言葉はモルドバ人学校や公的使用にも導入された。マダンの本は図書館から外され、破棄された。しかしながらこの運動は短い間に終わり、1940年代後半にはソ連で言語をキリル文字に移す新しい流行が始まった。

1937年、ソ連の大粛清の間、モルダビアASSRの多くの知識人は、ブルジョワ、ナショナリストトロツキストとして人民の敵として告発され、元の立場から排除され、抑圧され、多くの人間が処刑された。1938年、キリル文字は再びモルドバ語の公式な文字と宣言され、ラテン文字は禁止された。しかしながら書き言葉はマダンの作った物に完全に戻らず、ルーマニア語との近さが維持された。1956年以降マダンの影響は教科書から完全に取り除かれた。

この政策は1989年まで有効なものとして残っていた。キリル文字は沿ドニエストル共和国では今でも使用されている。

解散

1940年6月26日、ソ連政府はモスクワ駐在ルーマニア大使に最後通牒を突きつけ、ルーマニアに直ちにベッサラビアと北ブコビナの割譲を要求した[6]。一方、イタリアドイツは安定したルーマニアを望んでおり、その油田への接続をカロル2世に強く迫っていた。脅迫の下、フランスやイギリスからの援助がなかったため、ルーマニアはソ連に対しこれらの土地を割譲した[7][8][9]。6月28日、ソ連軍はドニエストル川を渡り、ベッサラビアと北ブコビナ、ヘルツァ(Hertza)を占領した。ウクライナ人が最大の民族集団であった北ブコビナ、ホティン(Hotin)、アッカーマン(Akkerman)、イズマイールなどの地域と同様、ヘルツァなどルーマニア人が多数派であり陸で接続された地域はウクライナに併合された。ベッサラビアの黒海岸と、ドナウ川正面のウクライナへの移動はソ連が黒海を安定支配することを確実にした。

1940年8月2日、ソビエト連邦はモルダビア・ソビエト社会主義共和国(モルドバSSR)を設置、モルダビアASSRは事実上解散した。モルドバSSRはベッサラビアの最西部にモルダビアASSRを加えたの6つの地域が範囲になった[6]


脚注

  1. ^ Grigore Kotovski、Bădulescu Alexandru、Pavel Tcacenco、Solomon Tinkelman、Alexandru Nicolau、Alexandru Zalic、Ion Dic Dicescu(Isidor Cantor)、Theodor Diamandescu、Teodor Chioran、Vladimir Popovici

参照

  1. ^ a b King, p.52
  2. ^ King, p.54
  3. ^ a b Nistor, Vechimea... p.22, who cites Odessa Izvestia, 9 September 1924, no. 1429
  4. ^ Disorder in the Ukraine?, TIME Magazine, December 12, 1927
  5. ^ King, p. 51
  6. ^ a b Charles King, The Moldovans: Romania, Russia, and the politics of culture, Hoover Institution Press, Stanford University, 2000. ISBN 0-8179-9792-X.
  7. ^ Moshe Y. Sachs, Worldmark Encyclopedia of the Nations, John Wiley & Sons, 1988, ISBN 0471624063, p. 231
  8. ^ William Julian Lewis , The Warsaw Pact: Arms, Doctrine, and Strategy, Institute for Foreign Policy Analysis, 1982, p.209
  9. ^ Karel C Wellens, Eric Suy, International Law: Essays in Honour of Eric Suy, Martinus Nijhoff Publishers, 1998, ISBN 9041105824, p. 79
  10. ^ Nistor, Vechimea... p.19, who cites Izvestia, 29 August 1924
  11. ^ King, p. 55
  12. ^ Nistor, Vechimea... p.4; King, p. 54






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