メクレンブルク=フォアポンメルン州
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- メクレンブルク=フォアポンメルン州
- Land Mecklenburg-Vorpommern
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州旗 州の紋章 州歌 {{{州歌}}} -
州都 シュヴェリーン 面積 23,173.46 km² (第6位) 人口
- 総計
- 人口密度(2005/12/31)
1,707,266 人 (第14位)
73.7 人/km²ISO 3166-2:DE DE-MV 公式サイト メクレンブルク=フォアポンメルン州政府 政 治 州首相 マヌエラ・シュヴェーズィヒ (SPD) 与党 SPD・CDU連立 前回選挙 2021年9月26日 次回選挙 2026年 連邦参議院(上院)
での投票権数3 地 方 市町村数
* 独立市849
6
バルト海に面し、ドイツで最も人口密度が低い州である。バルト海に浮かぶ島々の海岸や州南部に多数ある湖が、観光スポットである。州内には、2つの総合大学と多くの工科大学がある。州内の郡独立市はシュヴェリーン(州都)、ロストックの2都市である。
地理
メクレンブルク=フォアポンメルン州は、東はポーランドと接し、北はバルト海、西はシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州およびニーダーザクセン州、南はブランデンブルク州とわずかにザクセン=アンハルト州に隣接している。
ドイツの16ある州のうち6番目に広い面積を持つが、人口は国内全体のうち13%にとどまり、人口密度が最も低い。州都はシュヴェリーンであるが、バルト海に面した港町であるロストックのほうがよく知られている。
バルト海沿岸には数多くの島があり、そのうち有名なものではリューゲン島、ヒッデンゼー島、ウーゼドム島、ペール島などがある。
方言
メクレンブルク=フォアポンメルン方言は、低地ドイツ語のうちの東低地ドイツ語に属する
歴史
州は歴史的には、西部・中部のメクレンブルク (Mecklenburg) と、東部のフォアポンメルン(「前ポンメルン」。Vorpommern)からなる。フォアポンメルンは、現ポーランド領にまたがるポンメルンの西部である。
メクレンブルクには、1348年にメクレンブルク公領が成立した。1701年、西のメクレンブルク=シュヴェリーン (Mecklenburg-Schwerin) と東のメクレンブルク=シュトレーリッツ (Mecklenburg-Stargard) とに分かれた。1815年、それぞれ大公国となった。1918年のドイツ革命により、両国は共和政へ移行し、1934年に合併してメクレンブルク州となった。
ポンメルンにはポモージェ公国が成立し、13世紀以降、神聖ローマ帝国内に入った。ポモージェ公国は1637年に公家が断絶した。1648年のヴェストファーレン条約により、ポンメルンは東西に分割された。東半分のヒンターポンメルン地方はブランデンブルク辺境伯兼プロイセン公が、西半分のフォアポンメルン地方は、スウェーデン王が、それぞれ公を兼位することとなった。ナポレオン戦争の後、フォアポンメルンはプロイセン王国に割譲され、すでにプロイセン領であったヒンターポンメルン(「後ポンメルン」。Hinterpommern)とあわせてシュテティーンを州都とするポンメルン州となった。
1945年の第二次世界大戦終結後、ポツダム宣言に基づく新国境オーデル・ナイセ線の策定によりオーデル川以東のヒンターポンメルンやシュテティーンはポーランド領になった(ドイツ人追放)。ソ連軍占領下で、旧メクレンブルク州と旧ポンメルン州のドイツ残留部分が合同し、メクレンブルク=フォアポンメルン州(のちメクレンブルク州に改称)が創設された。東ドイツ(ドイツ民主共和国)が成立すると、メクレンブルク=フォアポンメルンはその1州部となった。1952年、東ドイツは中央集権化のため州制度を廃止し、(旧)メクレンブルク=フォアポンメルン州はおおむね、ロストック県、シュヴェリーン県、ノイブランデンブルク県の3つの県に分割された。1990年に東西ドイツが統一されると、これら3県は再び取りまとめられ1州となり、メクレンブルク=フォアポンメルン州としてドイツ連邦共和国の連邦州となった。
- ^ Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Duden. pp. 543, 825. ISBN 978-3-411-04066-7
- ^ [1]| SPIEGEL ONLINE
- 1 メクレンブルク=フォアポンメルン州とは
- 2 メクレンブルク=フォアポンメルン州の概要
- 3 政治
- 4 地方行政
- 5 シンボル
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