マウリヤ朝 歴史

マウリヤ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/02 06:35 UTC 版)

歴史

成立

いわゆる十六大国の中でも最も有力であったマガダ国ではナンダ朝が支配を確立していた。しかしナンダ朝はシュードラカーストの中で最下位)出身であったことからバラモン教の知識人たちによって忌避されていた。こうした状況下にあって、マガダ国出身のチャンドラグプタがナンダ朝に反旗を翻して挙兵した。これに対しナンダ朝は将軍バドラシャーラ(Bhadraśāla)を鎮圧に当たらせたが、チャンドラグプタはこれに完勝し、紀元前317年頃に首都パータリプトラを占領してナンダ朝のダナナンダ英語版を殺し(ナンダ朝の滅亡英語版)、新王朝を成立させた。これがマウリヤ朝である。

こうしてガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタはインダス川方面の制圧に乗り出した。インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前にマケドニアアレクサンドロス大王によって制圧されていたが、アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると彼の任命した総督(サトラップ)達の支配するところとなっていた。

各国勢力図(紀元前281年

ディアドコイ戦争中の紀元前305年、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し(セレウコス・マウリヤ戦争英語版)、セレウコス朝に4州の支配権を認めさせてインダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。これが直接的な戦闘の結果であるのかセレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり判然としない。

紀元前293年頃チャンドラグプタが死ぬと、彼の息子ビンドゥサーラが後継となり更なる拡大を志向した。ビンドゥサーラの治世は記録が乏しい。彼はデカン高原方面へ勢力を拡大したとする記録があるが、実際には既に制圧済みだった領内各地で発生した反乱を鎮圧する一環だったとする説もある。ビンドゥサーラの息子に史上名高いアショーカがいた。ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、タクシラーで発生した反乱に際してアショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせたが、アショーカは現地の人心掌握に成功して反乱を収めたという伝説がある。

アショーカ

紀元前268年頃ビンドゥサーラが病死すると、アショーカは急遽派遣先から首都パータリプトラに帰還し、長兄(スシーマ?)を初めとする兄弟を全て(仏典によれば99人)殺害して後継者となったと伝えられる。しかしこれは王位継承の争いが後世著しく誇張されたものであるらしく、実際にはアショーカの治世で各地の都市に彼の兄弟が駐留していたことが分かっている。とはいえ、彼の即位が穏便に行かなかった事は、彼が戴冠式を行ったのが即位の4年後であったことや、大臣達の軽蔑を受け忠誠を拒否するものが続出したという伝説などからも窺われる。アショーカは国内での反乱の鎮圧や粛清を繰り返しながら統治体制を固め、紀元前259年頃、南方のカリンガ国への遠征を行った。カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。

ギリシア人メガステネスの記録によればカリンガ国は歩兵6万・騎兵1千・戦象7百を擁する一大勢力であったとあり、マウリヤ朝の中央インド統治にとって最大の障害であった。激戦の末カリンガを征服したが、このカリンガ戦争で多数の人命が失われた(当時の記録によれば多数の徳のあるバラモンが死に、捕虜15万人のうち10万人の人が死に、その数倍もの人々も死んだとある。)。カリンガ国の征服によってマウリヤ朝は南端部を除く全インドと現在のアフガニスタンを含む巨大帝国となったが、アショーカはカリンガ戦争のあまりに凄惨な被害を目にして自らの行いを悔い、それまで信者ではあっても熱心ではなかった仏教を深く信奉するようになり、ダルマ(法)による統治を目指すようになったという。

誇張はあるであろうが、アショーカが仏教を深く信仰したことは数多くの証拠から明らかであり、実際カリンガ戦争以後拡張政策は終焉を迎えた。仏教に基づいた政策を実施しようとした彼はブッダガヤ菩提樹を参拝すると共に、自分の目指したダルマに基づく統治が実際に行われているかどうかを確認するために領内各地を巡幸して回った。アショーカの事跡は後世の仏教徒に重要視され多くの仏典に記録されている。

衰退期

マガダ国およびマウリヤ朝による勢力範囲の変遷

アショーカは晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があるが記録が乏しくその最後はよくわかっていない。チベットの伝説によればタクシラで没した。アショーカには数多くの王子がいた。彼らは総督や将軍として各地に派遣されていたがその多くは名前もはっきりとしない。そして王位継承の争いがあったことが知られているが、その経緯についても知られていない。いくつかの伝説や仏典などの記録があるが、アショーカ以後の王名はそれらの諸記録で一致せず、その代数も一致しないことから王朝が分裂していたことが想定されている。

いくつかのプラーナ文献によればアショーカの次の王は王子クナーラであったが、彼はアショーカの妃の1人ティシャヤラクシターの計略によって目をえぐられたという伝説がある。クナーラ以後の王統をどのように再構築するかは研究者間でも相違があって容易に結論が出ない問題である。しかし分裂・縮小を続けたマウリヤ朝はやがて北西インドで勢力を拡張するヤヴァナ(インド・ギリシア人)の圧力を受けるようになった。『ガールギー・サンヒター』という天文書には、予言の形でギリシア人の脅威を記録している。

…暴虐かつ勇猛なヤヴァナはサーケータを侵略し、パンチャーラ、マトゥラーも侵し花の都(パータリプトラ)にも到達するであろう。そして全土は確実に混乱するであろう。…

— 『ガールギー・サンヒター』

マウリヤ朝最後の王は仏典によれば沸沙蜜多羅[注釈 1]プシャミトラ)、プラーナ聖典によればブリハドラタであった。これはブリハドラタとする説が正しいことがわかっている。プシャミトラはブリハドラタに仕えるマウリヤ朝の将軍であり、北西から侵入していたギリシア人との戦いで頭角を現していった。そして遂にはブリハドラタを殺害してパータリプトラにシュンガ朝を建て、マウリヤ朝は滅亡した。その時期は紀元前180年頃であったと考えられている。


注釈

  1. ^ 漢字表記法は一定しない。沸沙蜜多羅という表記は『雑阿含経』による。

出典

  1. ^ 山崎, 小西編 2007, pp. 111–112.
  2. ^ a b 山崎, 小西編 2007, p. 111.
  3. ^ 山崎, 小西編 2007, p. 112.
  4. ^ 山崎, 小西編 2007, pp. 117.
  5. ^ a b 山崎, 小西編 2007, p. 118.
  6. ^ 山崎, 小西編 2007, pp. 115–119.
  7. ^ 山崎, 小西編 2007, pp. 118–119.






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