ベッティーナ・バンジ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/10/05 14:56 UTC 版)
ベッティーナ・バンジ | |
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基本情報 | |
ラテン文字名 | Bettina Bunge |
国籍 | ドイツ |
出身地 | スイス・アドリスウィル |
居住地 | モナコ・モンテカルロ |
生年月日 | 1963年6月13日(47歳) |
身長 | 173cm |
体重 | 57kg |
利き手 | 右 |
ツアー経歴 | |
デビュー年 | 1979年 |
引退年 | 1989年 |
ツアー通算 | 6勝 |
シングルス | 4勝 |
ダブルス | 2勝 |
生涯通算成績 | 191勝116敗 |
シングルス | 99勝60敗 |
ダブルス | 92勝56敗 |
4大大会最高成績・シングルス | |
全豪 | 3回戦(1981) |
全仏 | 4回戦(1981) |
全英 | ベスト4(1982) |
全米 | 4回戦(1981・87) |
4大大会最高成績・ダブルス | |
全豪 | 1回戦(1984) |
全仏 | ベスト8(1982・85) |
全英 | ベスト4(1982) |
全米 | ベスト4(1982) |
キャリア自己最高ランキング | |
シングルス | 6位 |
ダブルス | ?位 |
ベッティーナ・バンジの少女時代は、父親が魚を取り扱う仕事に従事していたため、移転の多い生活だった。ベッティーナがスイスで生まれた後、一家はペルーに移転し、そこで14年間を過ごした。その間に、ベッティーナは13歳でペルーの女子ジュニアのナンバー1になっている。それから一家はアメリカ・フロリダ州マイアミに移った。ベッティーナは1978年の全米オープンでいきなり本戦3回戦に進出し、この年から女子テニスツアーの世界ランキングに登場する。1979年に16歳でプロ入りし、全仏オープンでベスト16進出を決めた。1980年から女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」(現在の名称はフェドカップ)の西ドイツ代表選手となる。1980年10月にスウェーデン・ストックホルムの大会で、女子ツアー初の決勝進出を果たす。
1982年がバンジのキャリアの最盛期で、日本のテレビ東京主催の大会を含む年間3勝を記録した。ウィンブルドンでは自己最高のベスト4に進出し、準決勝でマルチナ・ナブラチロワに 2-6, 2-6 で敗れた。ダブルスでもクラウディア・コーデ=キルシュと組み、全仏オープンベスト8に入った後、ウィンブルドンと全米オープンの2大会連続で女子ダブルス4強進出がある。1982年と1983年の2年連続で、西ドイツ・チームはフェデレーション・カップで2年連続の決勝進出を果たしたが、1982年はアメリカ、1983年はチェコスロバキアに敗れて準優勝になっている。バンジは1983年2月にツアー4勝目を挙げたが、それ以後はツアーのシングルス・タイトルを獲得できなかった。
その後しばらく、故障で世界ランキングを落とした時期もあったが、1986年のウィンブルドンで4年ぶりのベスト8進出を果たす。この準々決勝で壁になったのもマルチナ・ナブラチロワだった。この年はダブルスで好成績があり、日本の東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントでシュテフィ・グラフとペアを組んで優勝を飾った。当時グラフは17歳の伸び盛りで、この年の東レテニスは単複制覇だった。1987年にグラフが世界ランキング1位に躍進すると、西ドイツの女子テニス界は大きな弾みがつき、この年に西ドイツはフェデレーション・カップで待望の初優勝を飾った。
しかし1988年に入ると、バンジは左膝の故障に悩み、この年は試合に全く出場できなかった。1989年のシーズンを最後に、バンジは26歳の若さで現役を引退する。この頃にはグラフが世界ランキング1位を独走し、彼女の先駆者となった選手たちの時代は終わりに近づいていた。
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- 2 ベッティーナ・バンジの概要
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