ブラゴヴェシチェンスク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/30 16:53 UTC 版)
歴史
黒竜江沿岸は早くからダウール族とツングース系のドゥチェル族が居住していた地域である。現在のブラゴヴェシチェンスク市街南東25-30km、黒竜江東岸にある中国人居留地江東六十四屯や璦琿古城(現在のグロデコフスキー遺跡)の地域には、遅くとも西暦1000年には両民族が住んでいたとされる[2][3]。
ロシアの商人・探検家エロフェイ・ハバロフによって、この地域に1652年にはアイチュン、1683年から1685年にかけてはアイグンと呼ばれていたドゥチェル族の町があったと記録されている。
1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、ネルチンスク条約では、ブラゴヴェシチェンスク周辺地域は清朝の領土とされた(清露国境紛争)。
その後、1856年にブラゴヴェシチェンスク市街地はロマノフ朝ロシア帝国の要塞都市として建設された。アムール川の北部は清に属していたが、1858年のアイグン条約(璦琿条約)と1860年の北京条約によって外満洲の一部として正式にロシアに割譲され、アムール・コサック軍の根拠地となった。この時、例外的に広さ約3,600平方キロの中国人居留地江東六十四屯はロシア領ながら清朝による管理が認められた。
1900年7月、ロシア帝国は義和団の乱の一部で義和団が東清鉄道を破壊しブラゴヴェシチェンスクを占領した報復として、ブラゴヴェシチェンスク及び当時清朝が管轄していた中国人居留地江東六十四屯の中国人居留民をアムール川に追い込んで虐殺すると言う事件が起きた(被害者数は3,000人 - 25,000人と言われ不明確。アムール川(黒龍江)事件、旧制第一高等学校の寮歌「アムール川の流血や」に登場する)。
ロシア革命に続くロシア内戦が1917年に始まり、1918年3月6日、ロシア白軍の一部であるアムール・コサック軍が、ガモフの反乱を起こした。1919年にはロシア白軍を支援する日本軍はシベリア出兵の一環として、ブラゴヴェシチェンスクを占領。1920年には極東共和国の一部となったが、日本は1922年に撤退しソビエト政権に統合された。
1932年にアムール州が設置され首府となった。 1975年にはアムール大学が国立大学として設置された。
- ^ a b 【70年の中国】中露国境の今/極東の橋 発展明暗/ロシア側 24時間カジノで誘客『読売新聞』朝刊2019年12月19日(国際面)
- ^ Maxwell, Neville (June 2007), “How the Sino-Russian Boundary Conflict Was Finally Settled: From Nerchinsk 1689 to Vladivostok 2005 via Zhenbao Island 1969”, in Iwashita, Akihiro, Eager Eyes Fixed on Eurasia, 21st Century COE Program Slavic Eurasian Studies, Sapporo: Slavic Research Center, Hokkaido University, pp. 56 2009年2月24日閲覧。
- ^ Амурская область: История. Народы Амурской земли Archived July 18, 2011, at the Wayback Machine. (Amur Oblast - the History. The peoples of the Amur Land) (ロシア語)
- ^ “Климат Благовещенска”. Погода и Климат. 2011年10月17日閲覧。
- ^ “Climatological Information for Blagovescensk, Russia”. Hong Kong Observatory. 2011年10月17日閲覧。
- ^ “中俄跨黑龙江公路大桥累计完成投资9亿元” (中国語). 新华网. (2018年4月18日)
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