フランス革命の年表 共和国の樹立

フランス革命の年表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 08:41 UTC 版)

共和国の樹立

サン・キュロット

『サン・キュロットの扮装をした歌手シュナール』
8月10日事件[注 34]
九月虐殺[注 35]ランバル公妃の殺害)
ヴァルミーの戦い
国王ルイ16世の処刑
  • 8月10日
  • 8月13日
  • 8月14日:ラファイエット軍司令官、パリ進軍を企図(兵士の反対で失敗)
  • 8月17日
    • 自治市会パリ・コミューン、特別重罪裁判所を設置
    • 連盟兵、国王廃位を要求
  • 8月18日:バルナーヴ逮捕(〜1793年11月29日処刑)
  • 8月19日:ラファイエット、軍を捨てて亡命
  • 8月23日
  • 8月27日:次の議会のための予選会(第一次選挙)が始まる
  • 9月1日:ヴェルダン要塞降伏
  • 9月2日〜6日 : 九月虐殺[注 35]
  • 9月3日:選挙集会(第二次選挙)が始まる(普通選挙[注 36]
  • 9月20日
  • 9月21日 : 王政の廃止を決議し、共和国宣言フランス第一共和政成立)
  • 9月22日:この日が革命暦の元年元旦となる
  • 9月25日
    • ジロンド派が提案した州連邦制度案を否決[注 37]
    • ジロンド派、ロベスピエールを「独裁を目指す者」として告発
  • 10月2日 : 国民公会、保安委員会や公教育委員会など14の委員会を設置
  • 10月6日:ジェマップの戦い[注 38]
  • 10月8日:ビュゾー、県衛兵隊(連盟兵)の創設を提案
  • 10月10日
    • ダントン、機密費問題で司法大臣辞職
    • パリ・コミューン、ジャコバン・クラブからブリッソーを追放(ジロンド派脱退
  • 11月13日:サン=ジュスト、国王裁判について演説
  • 11月27日:サヴォワを併合
  • 12月4日:国王裁判開始(〜1793年1月15日結審)

1793年

対外戦争と内戦で共和国は最大の苦境に

ヴァンデの反乱(ロワール渡河)
『マラーの勝利』

注釈

  1. ^ 宗教的理由で1752年に発禁処分となるが、地下出版で続刊出版。
  2. ^ 自由主義経済の原理を示したものとして脚光を浴びる。
  3. ^ 些細な違反を咎めて債権を踏み倒し、あるいは支払いを遅延して、債権者であるブルジョワジーを破産させることで、国家債務を減らす政策。強権的なやり方でブルジョワジーから強い不満があがった。
  4. ^ 後任の財務総監クリュニーは反動政策を行って、テュルゴーの政策をすべて取り消したが、急死する。次の財務総監タブロー・デ・レオーの助手に任命されたネッケルが財務長官として財政の実権を握った。
  5. ^ ネッケル辞職後も、後任のジョリ・ド・フルーリー、ドルメッソンによって募債政策は継承されたが、改革には手が付けられなかったので、フランス財政は自転車操業が続き、赤字は膨れあがった。
  6. ^ 世界的な火山の活動期で、噴火による大気中の粉塵の増加によって世界中で気温が最大-1.5度低下した。これにより世界中のいたるところで厳冬と凶作に見舞われ、飢饉が起こったが、これはフランス革命の遠因の一つとされる。
  7. ^ フランス革命の遠因になったとされる1783年の浅間山大噴火については「天明大噴火」を参照
  8. ^ アメリカ独立の余波はフランスにも伝わり、国内でも自由への希求が高まった。
  9. ^ 完成は1791年で、革命勃発後も失業者向け公共事業として継続された。
  10. ^ 一方でカロンヌもネッケルの会計報告書が赤字を隠すなど虚偽であったとして批判した。論争は政治的対立となって激化した。
  11. ^ 20分の1税に代わる新税で、土地の生産高に応じて全ての身分に課されるもので、特権身分への課税を目論んだもの(Subvention territoriale
  12. ^ 英仏は従来犬猿の仲であったが、1783年のパリ条約から1793年の革命戦争の参加までの10年間は平和な時代であった。両国間は通商条約を結んで交易を活発化したが、自由貿易の門戸が開かれたことで、より安価なイギリス製品がフランス国内を席巻する事態となった。翌年より本格的な不況に陥ったフランスでは、産業が衰退し、多くの失業者が発生して社会不安が増大した。フランス革命の遠因の一つとされる。
  13. ^ a b 高等法院を支持する民衆が軍隊に瓦や石を投げつけた事件。同様の暴動がディジョン(11日)、トゥールーズ(19日)など各地で頻発。
  14. ^ a b ルイ16世が三部会の議場閉鎖を命令。反発した議員は第三身分を中心に集まり、ムーニエの提案で、憲法制定まで解散しないことを誓う。
  15. ^ 5月10日にルイ16世は高等法院の縮小を命令し、月末からこれに反対して全国で騒乱に発展した。
  16. ^ バルナーヴムーニエJean-Joseph Mounier)らが指導したもので、第三身分定員倍増、階級別でなく個人別投票、三部会が召集を要求し、さもなければ増税を拒否することを宣誓した。
  17. ^ この時、期日は翌年5月1日を予定していたが、実際には5日開催されることになった。
  18. ^ 国王諮問会議とも訳す。(Conseil privé
  19. ^ 賃金とパンの値段についての失言に端を発した労働者の大規模な暴動で、軍隊が出動し、工場長のレヴェイヨンと家族がバスティーユに避難する事態になった。(Reveillon riot
  20. ^ 第三身分は拒否。ミラボー伯爵は「われわれは銃剣の力によらなければこの場を離れない」と宣言した。
  21. ^ 資金難のため実行できず、15日に命令撤回。一方で、命令を出した事実が一人歩きして民衆蜂起を誘発。
  22. ^ パリ守備隊司令官ブザンヴァル(Pierre Victor de Besenval de Brünstatt)は撤兵を決断して無政府状態に。
  23. ^ 革命が生み出した無政府状態により、全国の農村で大規模な蜂起。蜂起農民は、領主館を襲撃するなどして土地台帳を焼却した。領民の報復を恐れた貴族の亡命の動きが盛んになる。
  24. ^ 全国に広がる農民反乱を鎮めるために立憲議会の自由主義貴族はアンシャン・レジームの廃止を決断して農民の解放を宣言した。
  25. ^ 6日、国王ルイ16世一家がヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿へ強制移動。
  26. ^ 20日深夜、国王一家がパリを逃亡。21日、ヴァレンヌで捕われ、25日にパリへ連行。
  27. ^ シャン・ド・マルスでの国王廃位請願デモに対してラファイエットの国民衛兵隊が発砲。
  28. ^ フランス革命の余波で市民権を求めるムラートが蜂起。22日、これに誘発された黒人奴隷の大規模反乱始まる。
  29. ^ オーストリアのレオポルト2世とプロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が亡命貴族の圧力をうけて共同声明を発表し、革命を威嚇した。
  30. ^ 開戦論と反戦論の争いをきっかけに、ジロンド派とジャコバン派(モンターニュ派)の主導権争いが次第に激化する。
  31. ^ 厳密には「ボヘミア・ハンガリー王」としてのフランツ2世に宣戦布告したため、神聖ローマ国の諸邦の大半は当初戦争に参加しなかった。神聖ローマ皇帝もちょうど空位で、諸邦が実際参加するのはフランス軍がライン川に迫ってから。
  32. ^ よく訓練された職業軍人で構成されるオーストリア=プロイセン同盟軍が進撃を始めると、未訓練の義勇兵を中心とし、貴族士官と平民との軋轢をかかえたフランス軍は統制を欠き、戦える状態ではなかったので、敗走を重ねた。
  33. ^ 28日にパリに伝わり、民衆が激怒。蜂起の動きが始まった。
  34. ^ a b 民衆と連盟兵がテュイルリー宮殿を襲撃した事件。立法議会が王権の停止を議決し、議会の解散も決まった。
  35. ^ a b プロイセン軍がヴェルダン要塞を攻略したニュースがパリに届いて、パニックが発生し、数箇所の監獄に民衆が殺到して、大半が王党派とは無関係の収監者を無差別に虐殺した事件。
  36. ^ ただし間接選挙であり、選挙権も現代の普通選挙とは異なる幾つかの制限があった。
  37. ^ この提案は、ジロンド派の一部(ビュゾー派)が主張したものに過ぎないが、ジロンド派=連邦主義者という悪評が定着するもとになった。連邦主義は地方主権論であるが、中央集権とパリ独裁を主張する革命主流派の敵と見なされた。
  38. ^ オーストリア軍を撃破し、南ネーデルラントの支配圏を奪った。(Battle of Jemappes
  39. ^ 公安委員会の前身。(Comité de défense générale
  40. ^ 徴兵制度とは違うので注意。
  41. ^ 聖職者民事基本法への宣誓問題と、30万人動員令に反発した王党派農民が反革命の蜂起を起こした。
  42. ^ 北方軍司令官のデュムリエ将軍がオーストリア軍と共謀してパリに進撃して王政復古を目指した事件で、フランス将兵に拒否され、デュムリエはルイ・フィリップらとともに亡命した。前線の最高指揮官を失ったフランス軍は大混乱に陥った。
  43. ^ ヴァンデ反乱軍が撃退され、指導者カトリノーが重傷を負って後に死亡した。(Bataille de Nantes
  44. ^ a b メートル法が一般に浸透したのは1840年代。
  45. ^ これも徴兵制とは異なる。人的・物的資源の無制限の動員を可能にするもので、総力戦体制の始まり。
  46. ^ ジロンド派(ブリッソー派)と親しい商人で、「黒人友の会」のメンバー。立法議会および国民公会が派遣した4人の委員の1人。議員ではなかったので両議会の変わり目でも活動した。ハイチ革命で重要な役割を演じるが、1797年にサン=ドマング代表の議員となって島を離れた。(Léger-Félicité Sonthonax
  47. ^ サン・キュロットの要求を受け入れて恐怖政治が始まった。広義では8月10日事件や6月2日の革命にすでに開始されていたという考え方もあるが、国民公会が公式に認めたのはこの日から。
  48. ^ a b 別名・食糧徴発隊。軍事組織ではないので注意。
  49. ^ サン=ジュストが国民公会に提案し「平和が到来するまで革命的である政府」を続けると宣言。ここでいう“革命的”とは三権の非分立を意味する。
  50. ^ 10月12日から始まったマリー・アントワネットの裁判は、三日間の休廷を挟んで15日に結審し、死刑判決が下された。16日に刑が執行されたのは、会戦の日程に合わせるため。
  51. ^ ヴァンデ叛徒のカトリック王党軍大敗。(Battle of Cholet
  52. ^ 「理性の崇拝」という無神論運動の祭典。(Cult of Reason
  53. ^ イギリス・スペイン・ナポリ他の同盟軍が同市を放棄して撤退。フランス軍が入城。報復のテロも始まる。
  54. ^ ただしフランス本土で奴隷制完全廃止がなされたのは1948年である。またこの2月4日の法令はナポレオンによって修正された。
  55. ^ 反革命容疑者の全財産を没収して、貧困者に再配分しようとしたが、施行はされなかった。
  56. ^ このフランス軍の勝利により、オーストリアの反撃は失敗し、敗戦は確定的となった。革命戦争は防衛から侵略的性格へと変わった。(Battle of Fleurus
  57. ^ 国民公会でロベスピエール派の逮捕決議採択。収監されたロベスピエール派指導者達を、同派の国民衛兵隊が奪回して市庁舎に立てこもるが、深夜にバラスらの襲撃部隊の急襲で再逮捕される。
  58. ^ 歴史家の中に狭義としてフランス革命をテルミドールのクーデターをもって終結としたものがあったが、現在、総裁政府期を革命に含めないという考えは主流ではない。
  59. ^ 英国王を王とする国家で、パオリ派による英領コルシカ。総督エリオットとの対立で崩壊した。(Anglo-Corsican Kingdom
  60. ^ シャレットとストフレは相次いで講和に応じ、ヴァンデ戦争はキブロン遠征で再開されるまで、一時休戦した。
  61. ^ アッシニアの価値が急落。物価が高騰。
  62. ^ バラスの副官ナポレオン・ボナパルトがこれを鎮圧。
  63. ^ 「土地手形」や「土地証券」などとも訳す。ハイパーインフレに陥ったアッシニアを回収するための政策で、再び土地と交換する新紙幣として創設したものであったが、大量にアッシニアを保持する富裕者に土地を配ったも同然で、格差をより拡大させた。バブーフの「平等派宣言」で告発され、蜂起の要因になった。
  64. ^ バブーフをはじめ、陰謀に関わった数名が逮捕された。反乱未遂事件。
  65. ^ フランス・ブルボン家を打倒した革命政府は、その親戚であるスペイン・ブルボン家と、対英同盟を結ぶに至った。これにより革命戦争は革命対反革命というイデオロギーではなく、列強間の国益を巡る争いに戻った。(Second Treaty of San Ildefonso
  66. ^ 王党派が躍進した選挙結果を軍隊の力で無効にした事件。ボナパルトがイタリアから派遣したオージュロー将軍が指揮した。(Coup of 18 Fructidor

出典






英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フランス革命の年表」の関連用語

フランス革命の年表のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランス革命の年表のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフランス革命の年表 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS