フラウィウス・ヨセフス フラウィウス・ヨセフスの概要

フラウィウス・ヨセフス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/18 10:19 UTC 版)

フラウィウス・ヨセフス

生涯

ヨセフスは本名ヨセフ・ベン・マタティアフ(マタティア・ハスモン王朝の息子ヨセフ)。ヨセフスはエルサレムユダヤ属州州都)の祭司の家系に生まれ、彼自身の言葉によれば、青年時代にサドカイ派エッセネ派など当時のユダヤ教の諸派を経て最終的にファリサイ派を選んだという。64年にはユダヤ人の陳情使節の一員としてローマへ赴き、ネロ帝妃ポッパエア・サビナの知己を得ている。

ユダヤ戦争の初期(66年)、ヨセフスは防衛のためエルサレムからガリラヤへ派遣され、ガリラヤの町ヨタパタを守ってローマ軍と戦ったが敗れた。異邦人への投降をよしとしない守将たちは自決を決議、くじを引いて互いに殺しあったが、ヨセフスは最後の2人になったところでもう1人の兵士を説得、2人で投降した。ローマ軍司令官ウェスパシアヌス(後のローマ皇帝)の前に引き出され、ウェスパシアヌスがローマ皇帝になると予言して命を助けられる。

ネロ帝死後の混乱を経て実際にウェスパシアヌスが皇帝になると、その息子ティトゥスの幕僚として重用され、エルサレム攻撃に参加。70年エルサレム陥落を目撃した。

71年にティトゥスと共にローマに向かい、終生そこで暮らして厚遇を受け、ローマ市民権と皇帝の氏族名であるフラウィウスという名まで与えられた。

75年から80年までのある時期にローマで、自分の経験と種々の資料をもとに『ユダヤ戦記』を著わし高い評価を得た。ヨセフス自身によると、『ユダヤ戦記』にはもともとアラム語版が存在し、それをギリシャ語で書き改めたといわれる。アラム語版は現存せず、現在まで伝わっているのはギリシャ語版の『ユダヤ戦記』である。

さらに95年ごろ、天地創造からユダヤ人の歴史を説きおろした、スケールの大きな『ユダヤ古代誌』も完成させた。『ユダヤ古代誌』18巻63には「フラウィウス証言」と呼ばれるイエスに関する記述があることで有名であったが、キリスト教徒側で保存されていた文書であったことから、後世の加筆の有無が問題となっている。

三代のフラウィウス朝皇帝の幕僚として何不自由のない生涯を過ごしたかに見えるヨセフスであったが、裏切り者の烙印、同胞のユダヤ人やローマ人からの非難や中傷に終生悩まされ、それが彼を著述に駆り立てる一因にもなった。

100年頃、ローマで死去したと伝えられる。

子女

ヨセフスは4度の結婚を経験し、5人の男子がいる。その内3人が成人したが、ヨセフス死後の動向を示す史料が皆無であり、彼ら3人が妻帯して子女を儲けたかは明らかになっていない為、ヨセフスの孫以下の世代の人物は確認が取れない。

最初の妻の詳細は不明で子女は無く、皇帝ウェスパシアヌスはヨセフスが捕らえられたユダヤ人の女性と結婚するように手配した。ヨセフスにとっては2番目の妻であったがその女性と後に離婚した。こちらでも子女は確認できない。

71年頃、ヨセフスはアレクサンドリア系ユダヤ人女性を3番目の妻として迎えて3人の息子を儲けたが、妻の習慣に不満を持っていた為、離婚している。

  • 長男:ティトゥス・フラウィウス・ヒュルカヌス(73年- ?)- ヨセフスが3番目の妻との間に儲けた子女の内、唯一子供時代を生き延びた。フラウィウス朝とネルウァ=アントニヌス朝の時代を生きた。ヨセフスが100年頃に死去した時には26歳頃から27歳頃であり、存命であることが確認できるが、残りの人生については知られていない。
  • 次男:名前不明(早世)
  • 三男:名前不明(早世)

75年頃、彼は4番目で最後の妻であるクレタ島出身のギリシャ系ユダヤ人女性と結婚。彼らは幸せな結婚生活を送り、以下の2人の息子を儲けた。

  • 四男:ティトゥス・フラウィウス・ユストゥス(76年 - ?)- 異母兄ヒュルカヌスと同様、フラウィウス朝とネルウァ=アントニヌス朝の時代を生きた。ヨセフスが100年頃に死去した時には23歳頃から24歳頃であり、存命であることが確認できるが、残りの人生については知られていない。
  • 五男:ティトゥス・フラウィウス・シモニデス・アグリッパ(ティトゥス・フラウィウス・アグリッパとも。79年 - ?)- 異母兄ヒュルカヌス、同母兄ユストゥスと同様、フラウィウス朝とネルウァ=アントニヌス朝の時代を生きた。ヨセフスが100年頃に死去した時には20歳頃から21歳頃であり、存命であることが確認できるが、残りの人生については知られていない。

脚注


注釈

  1. ^ ヨセフとはיהוהヤハウェ)が増し加える、マタティアとはיהוהヤハウェ)が賜わるという意味のヘブライ語。

出典

  1. ^ English form the 17th century (OED). The Greek term is explicitly coined by Josephus and isn't attested elsewhere in Ancient Greek; Josephus marks it as a nonce coinage by calling it a "strained expression". W. Whiston tr. Josephus, Against Apion ii. §17 (1814) IV. 340: "He [Moses] ordained our government to be what, by a strained expression, may be termed a Theocracy", translating ὡς δ'ἄν τίς εἴποι, βιασάμενος τὸν λόγον, θεοκρατίαν (和訳)もし強いて言葉にすれば、"神権政治"(θεοκρατία)と言うのだろう。


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