ビラ・スタンモーア夜戦 アメリカ潜水艦グランパス

ビラ・スタンモーア夜戦

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アメリカ潜水艦グランパス

村雨と峯雲の一方的な喪失は、次のような憶測を生み出した。当時、アメリカの潜水艦グランパス (USS Grampus, SS-207) が2月11日にブリスベンを出撃して以降、僚艦グレイバック (USS Grayback, SS-208) とともにソロモン諸島方面で行動していたが、ついに哨戒から帰らなかった。海戦のあった3月5日夜、グレイバックはベラ湾近海でグランパスと思しき潜水艦を発見する[143]。それから間もなくして、グレイバックに「ギゾ海峡の方向に高速で航行する2隻の駆逐艦を迎え撃て」との指令が入る[143]。その3時間後、グレイバックはコロンバンガラ島の南端越しに発砲炎や閃光を見る[143]。その発砲炎や閃光の正体は分からなかったが、グランパスに関わっているものだと判断してベラ湾での哨戒を続けた[143]。やがてグレイバックも、3月6日夜に哨区の移動を命じられてベラ湾を去った[143]。「2隻の駆逐艦」を村雨と峯雲、「発砲炎や閃光」を夜戦によるものとするならば、グレイバックはビラ・スタンモーア夜戦の一部始終をコロンバンガラ島越しに観察していたことになる。

話はここから飛躍する。要約すれば、「村雨と峯雲はグランパスに出くわして撃沈したが、直後に第68任務部隊に攻撃されて沈没した」という論法となった[144]。グランパスの喪失認定に関する1943年3月29日付文書では、「3月5日から6日にかけての夜に、2隻の日本の駆逐艦がブラケット水道でグランパスを撃沈し、翌日大きな油膜が確認された」とあり[145]、またフェーイーは日記の中で、「二隻の日本の軍艦が味方の潜水艦を沈めて港に戻ってきたことを、このとき、僕たちは知らなかった」と記しており、海戦直後からこの手の話が伝えられていたと考えられる[80]。これに加え、グレイバックが爆雷攻撃のような音を聴取していない事から[143]、「沈めたとすれば水上で浮上状態を砲撃された」という尾ひれまでついた[146]。しかし、村雨が3月5日16時にブイン沖を出撃して21時30分にデビル島泊地に到着し、揚陸作業を終えて22時30分に出港してコロンバンガラ島東岸を北上、23時過ぎに第68任務部隊の攻撃を受けて沈没するまで、戦闘行為を行ったのは前述のように第68任務部隊に対して反撃を行った時のみであった[147]。グランパスの喪失認定に関する文書での「大きな油膜」も、おそらくは神川丸機などが3月6日未明から午前にかけて確認した油紋や油帯を指す。このことから、第九五八海軍航空隊の2機の零式水上偵察機が2月19日15時40分にグランパスの哨戒海域であった南緯05度04分 東経152度18分 / 南緯5.067度 東経152.300度 / -5.067; 152.300の地点で潜水艦を爆撃し、直撃弾1発を与えて沈没を報告していること[148]を引き合いに出して、この2月19日の攻撃こそがグランパスの最期であるという説も提示されている[146]。しかしながら、各種記述ともグランパスの喪失原因に結びつけて断定できるほどの材料がそろっていないのも事実であり、グランパスの喪失は現時点では謎とせざるを得なかった。




注釈

  1. ^ ニュージョージア島とイサベル島周辺を中部ソロモン諸島と呼称する。ブーゲンビル島、ショートランド島、ブカ島を北部ソロモン諸島と称する。『戦史叢書39巻、大本營海軍部・聯合艦隊〈4〉』73頁の注釈より。
  2. ^ 後日、沖縄方面根拠地隊司令官。沖縄戦で戦死。
  3. ^ 候補生らが「初めて入港した港湾では必ず行われる実習項目となっており、ガンルーム士官が短艇指揮として陸上との連絡、上陸員の送迎を行う上に必要な実施教育だった」(#村雨の最期p.14)
  4. ^ 「漸次北上の地歩を固めつつあった時であり、弾薬の補給も意の如くならないので射撃の制限を加えたのかもしれない。しかしむしろ敵は無益な交戦を避けて、極力当面の作戦目的たる基地の推進に重点を置いたと考えるのが正しいであろう」という見方が存在する(#村雨の最期pp.106-107)。この時期、南太平洋部隊は艦船と航空機が不足気味ではあったが(#ポッターpp.344-345)、弾薬に関する制限が実際にあったかどうかについては不明である。
  5. ^ 「椰子林を管理していた人々の家らしい」(#村雨の最期p.47)。目立った建物だったらしく、「潮流に遮られ、泳げども泳げども近づかない赤い屋根の魔法にとりつかれて、遂に力盡き果てコロンバンガラ島の海に村雨を追って沈んでしまった」者もいた(#村雨の最期p.58)。

出典

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