パワーズコート パワーズコートの概要

パワーズコート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 10:16 UTC 版)

パワーズコート邸
: Eastát Chúirt an Phaoraigh
英: Powerscourt House
概要
建築様式 パラディオ様式
自治体 ウィックロー県エニスケリー
アイルランド
着工 1731年
完成 1741年
1996年(再建)
クライアント 初代パワーズコート子爵リチャード
設計・建設
建築家 リヒャルト・カッセルス英語版
テンプレートを表示

概要

パワーズコートの主人がフェリム・オトゥール(Phelim O'Toole Phelim O'Toole 1603年没)であったころ、長年にわたり当地に強い思い入れを寄せてきたウィンフィールド家はオトゥールに反乱のぬれぎぬを着せ、屋敷と土地を手に入れようとした。1603年5月14日に確執は最高潮に達し、パワーズコートの当主の座はすでに男系の孫で嗣子のターロック(Turlough 1616年没)が継承していたにもかかわらず、ウィンフィールド派はオトゥール祖父をおびきだすとパワーズコートに近い通称「キリングホロウ」(謀殺のくぼ地)で殺害した。

イングランド王ジェームズ1世(1625年没)は同年10月27日、リチャード・ウィンフィールドに騎士の爵位を授け、恩給を召し上げる代わりに、パワーズコート邸を向こう21年にわたり賃料6アイルランド・ポンドで貸し与えた。オトゥール旧領の没収の根拠は、ブライアン・オニール(1549年没)と連座した3代前のオトゥールの反逆行為とされたが、そもそもオブライエンを合わせた3名の行動を没収の引き合いにするのは奇妙である。少なくとも1549年4月23日にキネラティ卿(Lord of Kinelarty、オトゥール祖父の父)は恩赦にあずかり反逆罪は成立していない上、没収されたはずのオトゥール家の地所はクロムウェル男爵領ともども、王家に献納済みでもあった。

このような由来で歴代のパワーズコート子爵家が本拠とした家屋敷は、1961年にスポーツ用品事業の創業者スラセンジャー家の手にわたる。現在は人気の観光名所として同名のゴルフクラブやアヴォカ社 (Avoca Handweavers) の運営する来場者向けレストランがあり、200近い部屋はホテルチェーンに客室として委託している。このカントリー・ハウスと対照する子爵家のタウンハウスは、ダブリンパワーズコート館英語版である。

歴史

13世紀の居城

13世紀の城の主人はアングロ・ノルマン系の貴族ラ・ポール男爵(La Poer)といい、家名はのちにイングランド風にパワー(Power)に改めた。城はダーグル川英語版グレンクリー川英語版グレンカレン川英語版から通じる道を抑える位置に置かれ、戦略上も軍事上も要衝にあった。

3階建ての城館は部屋数が少なくとも68室、玄関ホールは奥行き18mで幅は12mあり、かつては家宝の展示室であった。主応接室は1階ではなく当時の慣習にならって2階に置かれた。全長1.6kmブナの並木道が家の正面に通じている。

18世紀の邸宅

邸の外観(テラス側)
テラスと噴水(1820年代)

邸宅は16世紀にパワーズコート家の所領となり、やがて家門は繁栄し18世紀に初代パワーズコート子爵リチャードは建築家リヒャルト・カッセルス英語版を雇うと、中世の城に大幅に手を加えカントリー・ハウスにふさわしい改築をほどこすように命じる。

見晴らしの良い丘の頂上を建設地に選んだ建築家カッセルスは、それまで手がけた邸宅につきものだった陰鬱さを払拭した。パラディオ様式を厳格に踏襲し、ジョン・ヴァンブラなら「城らしい雰囲気」と呼ぶであろう趣きは、円形のドームをいただく塔を建物の両端に配した点にもっともよく表現された。

主応接室(1890年頃)

第5代パワーズコート子爵リチャード・ウィンフィールドは1821年8月、国王ジョージ4世の来臨を仰ぐ。1830年代にはキリスト教の聖書のいまだに実現しない予言をめぐる会議が何度か当所で開かれ、神学者ジョン・ダービや教役者エドワード・アーヴィングなどが出席した。一連の会議はパワーズコート子爵夫人テオドシアの後ろ盾を得て実現した。夫人の手紙や書類は2004年、パワーズコート予言会議英語版の概要を添えて再版された[2][3]

19世紀の庭園

日本庭園をのぞむ

第7代子爵マーヴィンは1844年に8歳で爵位を相続すると、アイルランドの領地49,000エーカー (200 km2) の主人となる。21歳に達すると、こちらの邸宅の大がかりな改装に取りかかり、庭も新しく造園させた。

庭園の設計プランには、マーヴィンが訪れたベルサイユ宮殿の華麗な庭園やウィーンシェーンブルン宮殿ハイデルベルクシュヴェツィンゲン宮殿で得たひらめきが下敷きとなった。工期は合わせて20年かかり、1880年に完成した。

庭園の見どころとして石塔を配したタワーバレー(塔の谷)、日本庭園有翼の馬の彫像、トリトン湖、イルカ池、生垣に囲まれた庭園、バンベルク門イタリア式庭園がある。ペパーポット塔の設計は、子爵夫人が大切にした高さ3インチ (7.6 cm) の胡椒入れに基づくと言い伝えられてきた。特筆すべきものとしてペット墓地があり、立ち並ぶ墓碑は「驚くほど思い入れたっぷり」と言われている[注釈 2]

20世紀の火災と改装

トリトン湖ごしに邸宅をのぞむ

スラセンジャー家は、第9代子爵英語版マーヴィン(1905年-1973年)から地所を1961年に買い取る。翌1962年に娘ウェンディはウィンフィールド家のマーヴィン閣下(1935年-2015年)と結婚、1973年には夫君の襲爵により第10代パワーズコート子爵夫人となる。息女ジュリアの結婚で男爵と閨閥を結び、スラセンジャーの家門と邸宅は貴族社会との絆を強めていく。子息マーヴィン・アンソニー・ウィングフィールドは11代目の子爵位を継承(2015年-)。

邸宅は1974年11月4日の火事で焼失して外構が残り、1996年の再建により2部屋に限って焼失前の子爵時代の内装を復原すると、店舗とレストランとともに来場者を受け入れている。1、2階の残りの部屋はマリオット・インターナショナル系列にホテル業を委託し、パワーズコートホテル・リゾート&スパ英語版(旧ザ・リッツ・カールトン)を置いている。2011年に旅行雑誌『ロンリープラネット』が選ぶ世界の豪邸トップ10に入った。また庭園は『ナショナルジオグラフィック』誌上で世界の名園第3位として2014年に紹介された。

レストラン

来園者向けの飲食サービスはアイルランドのアヴォカ社英語版が受託している。

滑走路

スラセンジャー家は地所内に滑走路をかまえ、カナダ空軍パイロット出身で空撮専門家のリン・ギャリソン英語版に会社と飛行機、格納庫を当地に移すように勧めた。ギャリソンは歴史的な航空機のコレクターでもあり、かずかずの機種をアイルランドやイギリス制作の劇場映画に提供し『ブルーマックス』『暁の出撃』『ツェッペリン』『レッド・バロン』などで飛ばした。リークスリップ空港から移動させた複数の機体は、1973年から1981年までこちらで保管した[要出典]

21世紀

タラ宮殿子ども博物館

この地所には世界最大級のドールハウスを収蔵するタラ宮殿子ども博物館(英: Tara's Palace Museum of Childhood)がある。2011年6月、ダブリン近郊 Malahide Castle から移されたもので、ドールハウスと家財道具のミニチュア、人形、各時代の昔のおもちゃを展示している。なかでも「タラ宮殿」と呼ばれるドールハウス[5]ウィンザー城にあるメアリー王妃のドールハウス、あるいはアメリカならシカゴ科学産業博物館の収蔵品、または外装だけで30年かけたというニューヨーク郊外のナッソー郡立美術館英語版がほこるアストラッド英語版にまさるとも劣らないと言われる[要出典]




「パワーズコート」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「パワーズコート」の関連用語

パワーズコートのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



パワーズコートのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのパワーズコート (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS