バティール 地理

バティール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 06:44 UTC 版)

地理

バティールはユダヤ山地英語版を南西に走り、海岸平野まで続くワディ・エル=ジュンディ(Wadi el-Jundi、「兵士の谷」の意)と呼ばれる谷の上の丘に位置し、ベツレヘムからは水平距離で北西へ6.4キロメートルの場所にある。1883年パレスチナ探査基金英語版(PEF)による西パレスチナの調査英語版の記録では、天然の要害となっている村の様子について記述されている。家屋は岩の段丘の上に立ち、北側の岩の多い急斜面の下に谷が存在するために北からの防御には非常に強く、一方で南側は二つの渓谷の先端の間の細い首状の部分が丘と尾根の主要部をつないでいる[2]。標高は海抜約760メートルである[3]。バティールの夏は温暖な気候で、冬には時折弱い降雪がみられる。年間平均気温は摂氏16度である。

歴史

古代

古代にベタル英語版の名で呼ばれていたバティールは、2世紀に存在していたユダヤ人の村と要塞であり、バル・コクバの乱の最後の戦場であった。現在のパレスチナの村は古代遺跡のヒルベト・エル=ヤフド(Khirbet el-Yahud、アラビア語で「ユダヤ人の廃墟」を意味する)の北東に築かれており、そのヒルベト・エル=ヤフドは、反乱指導者のバル・コクバ135年に戦死した、このローマに対するユダヤの第二次戦争の最後の拠点であったベタルとして比定されている[4][5][6]

現在の村に存在する段々畑は古代の要塞の城壁の線に沿って作られている[5]。また、村にはタンナイムとして知られるモディイムのエレアザル英語版の墓が存在するという伝承がある[7]。さらに、バティールからはビザンツ時代後期かイスラム時代初期に製作されたとみられるモザイクが発見されている[8]

オスマン帝国統治時代

バティールの女性(1898年から1946年の間の撮影)

バティールは1596年デフテル英語版と呼ばれるオスマン帝国の税務記録に、クッズ(エルサレム)地区にあるナーヒヤー英語版(いくつかの村か小さな町で構成される地方行政区分)として登場する。全員がムスリムで24世帯と2人の独身男性が居住し、税として小麦、夏作もしくは果樹、そしてヤギまたは養蜂箱を納めていた。納税額の合計は4,800アクチェ英語版(オスマン帝国の銀貨であり通貨単位)で、歳入はすべてワクフとして納められた[9]1838年にはビティール(Bittir)の名でエルサレムの西に位置するベニ・ハサン地区のムスリムの村として記録されている[10][11]

1860年代にはフランスの探検家のヴィクトル・ゲラン英語版がこの地を訪れている[12]1870年頃のオスマン帝国の村落の一覧の記録では、家屋数が62で人口は239人となっているものの、人口の集計は男性のみとなっている。また、「モスクの中庭を流れる美しい泉」があったことが記録されている[13][14]。1883年にまとめられたパレスチナ探査基金による西パレスチナの調査記録によれば、バティールは深い谷の険しい斜面にある中規模の村であると説明されている[2]1896年のバティールの人口は約750人と推定された[15]20世紀には開発によってエルサレムへの鉄道がバティールに沿って建設されたため、市場へのアクセスが容易になり、休養のために立ち寄る乗客からの収入も得られるようになった[16]

イギリス委任統治領時代

イギリス委任統治当局によって実施された1922年のパレスチナ国勢調査英語版では、バティールの人口は542人であり、全員がムスリムであった[17]1931年の国勢調査英語版では172の家屋が存在し、人口は758人に増加した。人口の内訳はムスリムが755人、キリスト教徒が2人、ユダヤ人が1人であった[18]1945年の統計英語版では、バティールの人口は1,050人で全員がムスリムであり[19]、公式の土地と人口の調査によれば、土地面積の合計は8,028ドゥナムであった[20]。このうち1,805ドゥナムは栽培樹木と灌漑可能な土地であり、2,287ドゥナムは穀物用の農地であった[21]。また、73ドゥナムが市街地であった[22]

ヨルダンによる占領と併合

鉄道とバティールの街

1948年に発生した第一次中東戦争の間に村人のほとんどは村から脱出したものの、ムスタファ・ハッサンという人物を中心とした数人が村に留まった。夜には家の中でろうそくを灯し、朝には牛を放牧した。イスラエル人は村に近づいた際にバティールにはまだ人が住んでいると考え、村への攻撃を断念した[23]停戦ライン英語版(グリーンライン)は鉄道路線の近くに引かれ、最終的にバティールはヨルダンとイスラエルの国境の東側わずか数メートルの距離に位置することになった。一方でバティールの土地の少なくとも30%が停戦ラインよりイスラエル側に残されたものの、村人は鉄道への損害を防止することを条件として村落を維持することを認められた[24][25]。結果として、バティールの住人は、第三次中東戦争より以前にイスラエル側に入り、イスラエルの土地で働くことを公式に許可された唯一のパレスチナ人となった[26]

1961年のヨルダンの国勢調査では、バティールの人口は1,321人であった[27]

イスラエルによる占領

1967年第三次中東戦争の後、バティールはイスラエルの占領下に入った。同年の国勢調査によれば、バティールの人口は1,445人であった[28]

パレスチナ自治政府による統治

1995年オスロ合意II英語版の調印以来、バティールはパレスチナ自治政府(PNA)によって統治されている。また、バティールはPNAによって任命された9人の議員が運営する村議会によって管理されている。オスロ合意IIでは、バティールの土地の23.7%がエリアB英語版として定義され、残りの76.3%はエリアC英語版として定義された[3]2007年のバティールの人口は3,967人であった[29]。また、2012年の人口は約4,500人と推定された[30]2017年のパレスチナ自治政府による国勢調査では、バティールの人口は4,696人であった[1]

考古学

ローマ軍団の第5軍団と第11軍団についての言及があるバティールの近郊で発見されたローマの碑文

村の中心部には湧水が供給されている古いローマ式の浴場が存在する[25]。考古学者のダヴィド・ウシシュキン英語版は、この村の起源は鉄器時代にさかのぼり、バル・コクバの乱の時には、当初防御に適した丘の上にバル・コクバによって選抜された1,000人から2,000人の規模からなる村落があり、エルサレムとガザを結ぶ主要路に近接していたと述べている[5]ハドリアヌス帝の治世にバティールの包囲に参加したと推定されるローマ軍団第5軍団マケドニカ英語版第11軍団クラウディア英語版の名が刻まれたローマの碑文が、村の天然温泉の一つの近くから発見されている[31]

なお、バル・コクバの乱の直後の時期に居住者がいた証拠は発見されていない[5]


  1. ^ a b Preliminary Census Results, PHC 2017 Palestinian Central Bureau of Statistics. p.76. 2020年3月16日閲覧。
  2. ^ a b Conder and Kitchener, 1883, SWP III, pp. 20-21
  3. ^ a b Battir Village Profile”. The Applied Research Institute – Jerusalem (2010年). 2014年3月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月11日閲覧。
  4. ^ David Ussishkin, "Soundings in Betar, Bar-Kochba's Last Stronghold"
  5. ^ a b c d D. Ussishkin, Archaeological Soundings at Betar, Bar-Kochba's Last Stronghold, Tel Aviv 20, 1993, pp. 66-97.
  6. ^ K. Singer, Pottery of the Early Roman Period from Betar, Tel Aviv 20, 1993, pp. 98-103.
  7. ^ אוצר מסעות - יהודה דוד אייזענשטיין Archived October 2, 2012, at the Wayback Machine.
  8. ^ Dauphin, 1998, p. 911
  9. ^ Hütteroth and Abdulfattah, 1977, p. 115
  10. ^ Robinson and Smith, 1841, vol 3, 2nd appendix, p. 123
  11. ^ Robinson and Smith, 1841, vol 2, pp. 324-325
  12. ^ Guérin, 1869, p. 387 ff
  13. ^ Socin, 1879, p. 148 It was also noted as located in the Beni Hasan district
  14. ^ Hartmann, 1883, p. 122 also noted 62 houses
  15. ^ Schick, 1896, p. 125
  16. ^ A Window on the West Bank, by Bret Wallach
  17. ^ Barron, 1923, Table VII, Sub-district of Jerusalem, p. 14
  18. ^ Mills, 1932, p. 37
  19. ^ Government of Palestine, Department of Statistics, 1945, p. 24
  20. ^ Government of Palestine, Department of Statistics. Village Statistics, April, 1945. Quoted in Hadawi, 1970, p. 56
  21. ^ Government of Palestine, Department of Statistics. Village Statistics, April, 1945. Quoted in Hadawi, 1970, p. 101
  22. ^ Government of Palestine, Department of Statistics. Village Statistics, April, 1945. Quoted in Hadawi, 1970, p. 151
  23. ^ Hans-Christian Rößler (2012年6月21日). “Palästinenserdorf Battir: Widerstand durch Denkmalschutz” (German). Frankfurter Allgemeine Zeitung. 2020年3月16日閲覧。
  24. ^ a b c Daniella Cheslow (2012年5月14日). “West Bank Barrier Threatens Farms”. Pittsburgh Post-Gazette. http://docs.newsbank.com/openurl?ctx_ver=z39.88-2004&rft_id=info:sid/iw.newsbank.com:AWNB:PPGB&rft_val_format=info:ofi/fmt:kev:mtx:ctx&rft_dat=13EC90164E2955F0&svc_dat=InfoWeb:aggregated5&req_dat=0D663DC0A81A15EA 2020年3月16日閲覧。 
  25. ^ a b c d e f West Bank barrier threatens villagers' way of life. BBC News. 2012-05-09. 2020年3月16日閲覧。
  26. ^ a b c Zafrir Rinat (2012年9月13日). “For first time, Israeli state agency opposes segment of West Bank separation fence”. Haaretz. 2020年3月16日閲覧。
  27. ^ Government of Jordan, Department of Statistics, 1964, p. 23
  28. ^ Perlmann, Joel (November 2011 – February 2012). “The 1967 Census of the West Bank and Gaza Strip: A Digitized Version”. Levy Economics Institute. 2020年3月16日閲覧。
  29. ^ 2007 PCBS Census Palestinian Central Bureau of Statistics. p.116. 2020年3月16日閲覧。
  30. ^ Palestine readying to propose Battir for UNESCO protection”. Ma'an News Agency (2013年2月1日). 2013年6月11日閲覧。
  31. ^ Clermont-Ganneau, 1899, pp. 463-470.
  32. ^ Britain Palestine Twinning Network. Archived September 27, 2007, at the Wayback Machine. 2020年3月16日閲覧。
  33. ^ a b c d A Palestinian Village Tries to Protect a Terraced Ancient Wonder of Agriculture. The New York Times. 2012-06-25. 2020年3月16日閲覧。
  34. ^ Threatened village proposed as next UNESCO world heritage site. Ma'an News Agency.
  35. ^ a b c d e f Evaluations of Nominations of Cultural and Mixed Properties to the World Heritage List (WHC-14/38.COM/INF.8B1.Add)” (PDF). 国際記念物遺跡会議(ICOMOS). pp. 7-15 (2014年). 2020年3月16日閲覧。
  36. ^ a b c d Daniella Cheslow (2013年6月10日). “Land for Peace in the Battle Over Millennia-Old Palestinian Farming Terraces”. Tablet Magazine. 2020年3月16日閲覧。
  37. ^ Ruth Michaelson (2013年3月12日). “Historic Palestinian village fights Israel's separation wall”. Radio France Internationale. 2020年3月16日閲覧。
  38. ^ a b “High Court freezes work on the security barrier in the Battir Valley”. THE JERUSALEM POST. (2015年1月4日). https://www.jpost.com/Arab-Israeli-Conflict/High-Court-freezes-work-on-the-security-barrier-in-the-Battir-Valley-386641 2020年3月16日閲覧。 
  39. ^ “パレスチナ、ユネスコの加盟国に”. AFP. (2011年11月1日). https://www.afpbb.com/articles/-/2838446 2020年3月16日閲覧。 
  40. ^ “PNA intensifies efforts to add more sites to World Heritage list”. Xinhua News Agency. (2012年5月30日). http://docs.newsbank.com/openurl?ctx_ver=z39.88-2004&rft_id=info:sid/iw.newsbank.com:AWNB:WXNA&rft_val_format=info:ofi/fmt:kev:mtx:ctx&rft_dat=13F1D3FBE4FEBFB8&svc_dat=InfoWeb:aggregated5&req_dat=0D663DC0A81A15EA 2020年3月16日閲覧。 
  41. ^ DECISIONS ADOPTED BY THE WORLD HERITAGE COMMITTEE AT ITS 36TH SESSION (SAINT-PETERSBURG, 2012)” (PDF). 世界遺産センター(World Heritage Centre). pp. 151-153 (2012年). 2020年3月16日閲覧。
  42. ^ DECISIONS ADOPTED BY THE WORLD HERITAGE COMMITTEE AT ITS 38TH SESSION (DOHA, 2014) (WHC-14/38.COM/16)” (PDF). 世界遺産センター(World Heritage Centre). pp. 154-155 (2014年). 2020年3月16日閲覧。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  バティールのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「バティール」の関連用語

バティールのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



バティールのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのバティール (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS