ドイッチュラント級装甲艦 その他

ドイッチュラント級装甲艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/24 08:04 UTC 版)

その他

当初から主砲用測距儀(基線長10.5m)と方位盤射撃装置を搭載していたが、3番艦アドミラル・グラーフ・シュペーでは世界に先駆けて艦上レーダーを搭載し、測距精度を高めた。

本級はバルト海域に存在していたソ連海軍のガングート級戦艦マラート級戦艦)には火力や防御力で及ばないが、スウェーデン海軍のスヴァリイェ級や、オスカー2世級、フィンランド海軍のイルマリネン級には速力や火力で勝っていた。

艦歴

海軍休日の時代

1番艦のドイッチュラントは1931年(昭和6年)5月19日、キールドイチェヴェルケ造船所パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の手によって進水し、1933年(昭和8年)4月1日に就役した。同日、ヴィルヘルムスハーフェン海軍工廠英語版ドイツ語版にて2番艦アドミラル・シェーアも進水した。1934年(昭和9年)11月12日に就役した本級の1番艦がヴィルヘルムスハーフェンに配属されたのに対して、2番艦のシェーアはキール軍港を定係港とした。なお、3番艦アドミラル・グラーフ・シュペーはヴィルヘルムスハーフェン造船所で建造され、1934年(昭和9年)6月30日に進水、1936年(昭和11年)1月6日に就役した。

1936年(昭和11年)7月23日にドイッチュラントとアドミラル・シェーアは不介入的哨戒活動のため、スペイン東岸に送られた。現地においてドイッチュラントは多数の戦争難民の救助活動にあたり、避難していく商船に引き渡した。また、ドイツからフランコ政権への援助物資を満載した船舶を護衛したり、共和派の通信を傍受して情報収集を行った。この期間中に共和派・革命派双方の空軍・海軍からの誤攻撃を避けるために、主砲塔に中立国の艦艇であることを示す「赤・白・黒」のストライプを塗装して判別化を図った。その努力にもかかわらず、1937年(昭和12年)5月にドイッチュラントはマリョルカ島パルマのドックにて整備を受けていた際に共和派空軍の空襲を受け、イギリスやイタリアの海軍艦艇と共に対空砲火を送る羽目になった。その後、ドイッチュラントはイビサ島に移動したが今度は5月29日に再び空襲を受けて2発の爆弾が命中した。1発は艦橋の付近に着弾し、もう1発は右舷3番副砲近くに着弾して甲板上に猛火を吹き上げ、乗員の内23名が死亡、73名が負傷した。

これに激怒したヒトラーは僚艦アドミラル・シェーアに共和派海軍の根拠地であったアルメリアを砲撃するよう命じた。奇しくもユトランド沖海戦と同日の5月31日、アルメリア沖合いに姿を現したドイツ装甲艦は海岸砲台、海軍施設、港湾の艦艇に対し猛然と砲撃を敢行し拠点を焼き払った。

その戦い

第一次世界大戦の教訓とレーダーの構想から、本級は当初の陸戦の支援という建造構想とは異なり、第二次世界大戦では英国と植民地とを結ぶ広大な公海で、その長大な航続力を利用して、あらかじめ展開された補助巡洋艦や補給艦と共に通商破壊作戦に従事した[41]。 1939年(昭和14年)9月の開戦後、出撃したグラーフ・シュペーはイギリス海軍の追跡を受けた[42]。12月13日、ラプラタ沖海戦でイギリス巡洋艦3隻と交戦し、損傷する[43]。修理のため中立国であったウルグアイモンテビデオ港に入港した[44]。だが英軍の情報操作および前述の燃料系統損傷により離脱不能と判断、シュペーは自沈を選んだ[45]

1940年(昭和15年)10月に出撃したアドミラル・シェーアは幸運にも恵まれ、まずHX84船団を撃破した[46]。その後は英軍の追跡を逃れて、大西洋だけでなくインド洋にまで進出し、合計10万トン近い商船を破壊・捕獲し、半年後の1941年(昭和16年)4月1日にキール軍港に無事帰投した[47]。ところが5月中旬に通商破壊作戦を企図して大西洋に出撃した新鋭戦艦ビスマルクは、イギリス空母を含む艦隊に捕捉されて沈没した[48]。その後、アメリカの参戦により大西洋で余裕のできた英軍は、枢軸側の通商破壊艦と補給船の一掃に乗り出した[49]。こうして水上艦による通商破壊は終焉した[49]

また、フランスや本国での英空軍による執拗な基地への爆撃から艦隊を守るためと、東部戦線を重要視するヒトラーの意志により、リュッツォウとシェーアは他の主力艦(ティルピッツなど)同様にノルウェーに配備された[50][51]。ディーゼルエンジンの本級は、燃料不足に陥りつつあったドイツ海軍にあっても重宝される存在であった[52]。北方に集まったドイツ艦艇はソ連への輸送船団攻撃を狙っていたが、1942年末のバレンツ海海戦における敗北で転機が訪れた[53]。もともと水上艦に不信感を抱くヒトラーが、海戦が敗北に終わったことを聞いて激怒し大型艦廃艦命令を出し、一時は廃艦の危機にさらされたからである[54][55]。レーダーの退任とデーニッツの就任、英国への水上艦隊の必要性から最終的に廃艦計画は撤回されたものの[56]、フィヨルドの奥で英軍の航空攻撃から逃れるために係留される状態が続いた。

1944年(昭和19年)の秋から、東部戦線が両艦へ近づき、リュッツオウとシェーアは陸上砲撃をたびたび行い、バルト海沿岸を後退するドイツ陸軍を支援した[57]。当初の構想どおりの陸軍と海軍の共同攻撃が実現した。

1945年(昭和20年)4月16日、リュッツォウは爆撃で大破着底したが、上甲板がまだ水面上に出ていたので、残った砲で陸上砲撃を行った後に放棄された[58]。シェーアはキール軍港で同年4月9日の空爆で破壊され、転覆した[58]

同型艦

1933年から1936年の間に以下の3隻の装甲艦が就役した。


  1. ^ (18)獨逸の軍艦[3] 獨逸は平和條約に於て排水量10,000噸以上の軍艦建造を差止められ居るため、その制限範圍内に於て最も有力なる軍艦を得んとして造りたるものに所謂袖珍戰艦ドイッチュランドであり、この艦は10,000噸にして形態としては一本檣を特徴とす。主砲は28糎砲6門を三聯装の二砲塔に納めて艦の首尾兩方に配置し、副砲として15糎砲8門、8.8糎高角砲3門を有し、舷側甲鐵4吋 砲塔甲鐵7吋を装着し、推進機關にヂーゼル機8臺を備へて總馬力54,000速力26.5節航續距離20節にて10,000浬といふ驚くべき性能を發揮したり。即ちヂーゼル機關の採用、電弧熔接の應用等技術の粹を集めてこの好成績を得たるものにて「窮すれば通ず」の諺を實現したものといはねばならぬ。(以下略)
  2. ^ 1939年(昭和14年)11月、ドイッチュラントはリュッツオウに改名された。一部の資料では、1940年2月改名と記述する[4]
  3. ^ 第二篇 海軍 艦船、兵器、機關/第一章 艦艇製造上の進歩/第一節 主力艦(一)戰艦の變遷(中略)[11] 獨逸が平和條約の範圍内で一九二八年八月起工、一九三一年五月進水、本年二月八日完成、四月一日就役した小型戰艦ドイッチランドは、或は「魔の戰艦」と唱へられ、或は「ポケット戰艦」といはれる程に、世界の議論の中心ともなり、又外國海軍の造艦計畫上に危機を生ぜしめたとも云はれてゐる程で、あらゆる點に於て他山の石とすべきものが多いやうである。次に此の小型戰艦の特色を述べて見よう。/ ドイッチランドが、其の噸數に比較して世界最大の戰闘力を持つて居ることは一般に認められてゐるが、その評價は稍々宣傳的誇張に過ぎるものが多いやうに思はれる。素々本艦は戰艦の代艦として造られたものではあるが、直に最新の戰艦と匹敵するといふやうなことは全く誇張に過ぎない、單に戰闘力は戰艦に等しく、而かも噸數は巡洋艦に等しきものを造らんとする努力が、多少酬ひられたに過ぎないのである。併し巡洋艦の噸數で、出來得る限り戰艦に近い實力を出さんとする獨逸海軍の努力が、此のドイッチランドに於て、或る程度迄成功したことは、確かに世界の驚異に値するものと云はねばならぬ。/ 本艦建造上最も苦心したのは明かに噸數の節約であつて、重量節約方法として採つた重要なことは左の四項である。/一、特に高級で重要輕き装甲材料を使用したこと。/二、艦内装備に輕金属合金を使用したこと。/三、鉸鋲を使用すべき場所に、出來得る限り電氣鎔接を以てしたること。/四、ディーゼルの應用を完全ならしめたること。/装甲の主要部分は全長に亙れる側面版、二枚の装甲甲板及び内部に於ける縱の隔壁にして、是等装甲の一部は構造的に船體と聯絡せしめられ、支持板の用をも兼ねて居る。/ 鉸鋲に代ふるに電氣鎔接を以てすることは、獨逸海軍の巡洋艦建造上の長い經驗であつて、今日では唯外板縦縁の繼ぎ目のみを鉸鋲に依るといふことである。/ 五萬馬力の能力を有する主機械はマン社製のものである。船體装甲に於て節約せられた重量は國防省の發表によれば五五〇噸であるが、主機械の重量も亦嚴重なる計算により、些末な部分に至るまで能く注意せられてゐる。一九一八年迄に計畫された軍艦用大モーターの重量は、一馬力平均五〇瓲であつたが、本艦に於ては其の六分の一となり。一馬力平均八瓲に過ぎない。/ 最大速力は二六節で、二〇節に於ける航續距離は約一萬浬である。又平均吃水五.八米であつて、此の淺吃水を補足するために、上甲板に至るまで乾舷高く、從つて動揺大なる虞ありといはれてゐるが、一方獨逸近海は非常に淺いから、之に適合するやうに計畫されたものと云ふことも出來るし、尚ほ且つ淺海に於ける戰闘によりて、敵潜水艦の活動をも制限し得る點も考慮されたのであるとのことである。而かも潜水艦襲撃に對する防禦としては、モーター室を小にせる外、内部構造に細心の注意が拂はれてゐる。
     獨逸小型戰艦ドイッチランドは、攻防の點では優に他國の一萬噸巡洋艦を壓倒する力があり、又他方に於ては優速の故を以て、伊佛兩國現在の主力艦との交戰を容易に囘避することが出來るので、特にこの脅威を受けた佛國では、之に對抗するため、高速戰艦ダンケルクを建造することになつた。その要目は次の通りである。/ 排水量二六,五〇〇噸、兵装三三糎砲八門(四聯装砲塔二基)一五.五糎砲(?)十六門、高角砲及機銃約四〇門、速力三〇節 同艦の防禦は水線甲帶、對空防禦甲板の外、水中防禦装置にも工夫を凝らしてある、又其の竣工に就ては不明であるが、一九三六年末には公試を行ひ得る豫定だと傳へられてゐる。
  4. ^ ポケツト戰艦】[13] 諸外國でも一萬噸八インチ砲巡洋艦では八吋砲八門乃至十門を積んでゐるが、ドイツは平和条約により、一萬噸以上の軍艦を造ることが出來ないので、研究の結果造つたのが、所謂 ポケツトせんかん で、その第一艦ドイツチエランドは十一吋砲六門、五吋砲九砲八門を積んでゐる。これに對抗するため、フランスは高速戰艦(二萬六千五百噸)「ダンケルク」といふ三十三糎(三十吋)砲八門十四糎(五.五吋)砲十六門を積んだ艦を建造中である。
  5. ^ (1)主力艦建造競争の再燃(略)然るにドイツは曩にベルサイユ條約に規定された制限によつて、一萬噸以上の主力艦の建造を禁止されてゐたのであるが、大戰の創痍次第に癒えて國力の充實漸く顕著となるに及び、遂に一九二九年敢然起つて許容されたる最大限度の戰闘力を有する主力艦ドイツチランド級三隻(ドイツチランド、アドミラル シエーア及びアドミラル グラーフ シユペー)の建造を開始した。(第十圖)此戰艦は 排水量一〇,〇〇〇噸 主砲十一吋砲六門(三聯装二砲塔) 装甲四吋 五四,〇〇〇馬力 速力二六浬 といふ性能のもので、俗にポケツト戰艦又は袖珍戰艦の愛稱を以て呼ばれてゐるものであるが、單に條約で許された最高限の戰闘力を持つてゐるといふに止まり、戰略上の必然的な要求を充たしたものではないことは勿論であり、素より列國の大戰艦の列に伍し得るものではないが、當時主力艦に代つて時代の寵兒となつた列國の條約巡洋艦群に對しては、正に一敵國の出現を示唆したものであり、殊にドイツの復興を最も怖れるフランスにとつては、此小戰艦の出現は確かに少なからざる脅威を與へるものとなつたのである。[19] 
  6. ^ ドイツ訪問を終えて日本に帰国中の大角岑生海軍大将(箱根丸)は、作戦中のドイッチュランドと遭遇する[20]。帰朝後、昭和天皇に対する御進講草案にはドイッチュランドについて「此豆戦艦ハ『ドイッチュランド』ノ外ニ尚二隻御座イマシテ、何レモ二十八糎砲六門ヲ有シ速力二十六節デアリマシテ、一万屯巡洋艦デハ砲力ガ足ラズ、戦艦デハ速力ガ足ラズ、之ヲ捕捉撃滅スルコトハ巡洋戦艦ニ依ラネバナラヌ情況デ御座イマス」と評している[21]
  7. ^ 〔 然し此の豆戰艦は、現在では最早や戰艦としての價値は殆どなくなつて了ひました。現に獨逸自身がもう此の型を建造するのを止め、もつともつと戰艦らしい戰艦の建造に懸命なのを見ても解るではありませんか。〕[23]
  8. ^ 本来はアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦の後期型1隻がリュッツオウ (Lützow) と命名されデシマーク造船所で建造中だったが、同艦はソビエト連邦に譲渡された[59]

脚注

  1. ^ a b 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 30–33一万トン級小型戦艦を建造
  2. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 130aドイツ/重巡洋艦(装甲艦)「ドイッチュラント」級 DEUTSCHLAND CLASS
  3. ^ 石川島技報、軍艦の変遷 1941, p. 8a(18)獨逸の軍艦
  4. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 130bリュッツォウ Lützow
  5. ^ 列強の臨戦態勢、コマ109-110(原本195-196頁)〔 第四、ウルガイ海峡英獨艦の比較 〕
  6. ^ 児童百科大事典、国防篇 コマ171(原本302-303頁)〔 ディーゼル船 〕
  7. ^ 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, pp. 114a-115装甲艦(ポケット戦艦)Panzerschiff「ドイッチュラント」級/重巡クラスの船体に大口径砲を積んだ新生ドイツ海軍最初の主力艦
  8. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 34–35(シュペー写真解説)
  9. ^ a b c 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 32.
  10. ^ 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, pp. 114b-115.
  11. ^ a b c d e 海軍及海事要覧、昭和8年版 1933, pp. 145–146原本181-183頁(獨逸小型戰艦)
  12. ^ a b 福井、世界戦艦物語 1993, pp. 215–217条約下にあえいだドイツ戦艦
  13. ^ 児童百科大事典、国防篇、コマ175(原本310頁)
  14. ^ 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, p. 68a「ヴェルサイユ条約」のくびき
  15. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 28.
  16. ^ 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, pp. 68b-71次々と代艦が建造される
  17. ^ #最新国防叢書(1) p.48〔 六、獨逸の豆戰艦ドイッチランド 〕、列強の臨戦態勢 コマ110-111(原本196-197頁)〔 第五、英のラワルビンデー號撃沈さる 〕
  18. ^ 『世界の艦船増刊 ドイツ戦艦史』P105
  19. ^ #主力艦展望pp.29-30
  20. ^ 戦史叢書91 1975, pp. 420a-421開戦初期の不徹底な独海軍作戦
  21. ^ 戦史叢書91 1975, pp. 420b-421.
  22. ^ #列国海軍造艦術現状 p.3〔 一、主力艦 現有勢力トシテノ主力艦ハ最新艦ト雖モ既ニ相當ノ艦齢ヲ重ネタル状況ニ在ルヲ以テ本項ニ於テハ代艦ニ對スル列國ノ状勢及改装艦ニ關スル事項竝ニ獨逸「ポケツト」戰艦ト佛國「ダンケルク」型主力艦ニ分ケテ述ベントス 〕
  23. ^ #最新国防叢書(1) p.48
  24. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 47–50条約下の重巡と軽巡
  25. ^ 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, p. 115ポケット戦艦vs.重巡洋艦の主砲火力比較
  26. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 33.
  27. ^ 海軍及海事要覧、昭和8年版 1933, p. 74a原本62-63頁「第六節 獨逸/一、造艦政策」
  28. ^ 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, pp. 112–113巡洋戦艦 Schlachtschiff「シャルンホルスト」級
  29. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 31.
  30. ^ 海軍及海事要覧、昭和6年版 1931, pp. 109b-110原本62-64頁〔 (一)獨逸/二、造艦政策及び造艦現状 〕
  31. ^ 海軍及海事要覧、昭和6年版 1931, p. 109a原本62頁「第二節 小海軍國の海軍現状/(一)獨逸/一、海軍政策」
  32. ^ a b c d 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, p. 70.
  33. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 45–46.
  34. ^ 海軍及海事要覧、昭和8年版 1933, pp. 70–71原本56-57頁「第四節 佛蘭西/二、新艦建造の概況」
  35. ^ a b 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, pp. 76–77「英独海軍協定」と独伊の連携
  36. ^ 石川島技報、軍艦の変遷 1941, p. 8b(17)海軍休日中に建造せられたる主力艦
  37. ^ #列国海軍造艦術現状p.6
  38. ^ #列国海軍造艦術現状p.7
  39. ^ 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, p. 71.
  40. ^ 海軍及海事要覧、昭和8年版 1933, pp. 74b-75原本63-64頁「第六節 獨逸/二、昨年度に於ける獨逸建艦の概況」
  41. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 44–48ポケット戦艦で通商破壊作戦
  42. ^ 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, pp. 40–41ラプラタ沖海戦
  43. ^ 列強の臨戦態勢、コマ111-112(原本198-200頁)〔 第六、シュペー號英の陥穽に落つ 〕
  44. ^ 苦悶の英國 1940, pp. 62–63原本114-116頁〔 八 シュペー號をめぐつて 〕
  45. ^ 列強の臨戦態勢、コマ112-113(原本200-203頁)〔 第七、小艦多數遂にシュペー號を屠る 〕
  46. ^ 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, p. 82.
  47. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 96.
  48. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 127–130ビスマルク壮烈な最期
  49. ^ a b 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, p. 84.
  50. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 134–135ブレストの艦隊を北へ
  51. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 155.
  52. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 165.
  53. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 171–175バレンツ海海戦
  54. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 176–177.
  55. ^ 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, pp. 50–51バレンツ海海戦
  56. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 180.
  57. ^ 歴史群像、図説ドイツ海軍全史 2006, p. 88.
  58. ^ a b 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 206.
  59. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, pp. 128a-129ドイツ/重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」級 ADOMIRAL HIPPER CLASS






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