トンガの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/16 02:52 UTC 版)
トンガの近代帝国主義
ヨーロッパ諸国から植民地化の手法を学んだトゥポウ1世はトンガによる植民地帝国の建設を開始した。目標は隣国フィジーである。まず、東部フィジーに侵攻し、トンガの領土とする。1853年には自らフィジーを訪問、キリスト教化を進めた。これは白人入植者と手を結び、フィジー全体をトンガが併合するためである。その後、キリスト教徒保護の名目で数次にわたるフィジー介入を続けた。しかし、フィジーに権益を持つアメリカ合衆国がまず、債務引継ぎを要求、1858年には当時の最新兵器である蒸気船を派遣したため、いったん、併合の動きを停止した。
この時点で、フィジーにはイギリス領事が置かれており、イギリスの権益が及んでいた。トゥポウ1世はフィジーをあきらめておらず、1860年にイギリスがニュージーランドでマオリ戦争を始め、1861年にアメリカが南北戦争で弱体化した機に乗じて、フィジーに圧力をかける。しかし、結局はフィジー側の抵抗が強く、1867年にはフィジーに立憲王国が成立、アメリカ、イギリス以外にニュージーランドとドイツの干渉を受け、フィジーから手を引くことになった。
このころ、1858年にイギリスとの交渉で通訳を果たしたメソジストの牧師であるシャーリー・ベイカーの時代が始まる。まず、トンガ王国顧問となった後、1862年に交付された民法改正に協力し、1875年にはハワイ憲法とニュージーランド憲法を参考に新憲法を作った。ほぼ同時期にメソジスト教会が分裂、トンガ自由メソジスト教会が他のメソジスト教会を圧迫してゆく。
1876年、トンガはドイツからの圧力を受ける。隣国サモアを支配下においていたドイツが艦隊を派遣し、友好条約の締結を迫ったからだ。条約ではトンガの石炭貯蔵設備をドイツが利用する権利を認めている。ドイツの動きに驚いたイギリスは同様の条約を1879年にトンガとの間で結んだ。このときベイカーはトンガの国益を主張したため、イギリスはメソジスト教会に圧力をかけ、1880年、オーストラリアに召還されてしまう。
しかし、ベイカーはドイツと通じ、ドイツの軍艦によってトンガに戻る。トゥポウ1世はベイカーを首相、外相に任命、トンガの平民に有利な法律の改正を進めた。しかし、イギリス商人の権益を損ねたため、1887年にはベイカー暗殺未遂事件が起きた。
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- 1 トンガの歴史とは
- 2 トンガの歴史の概要
- 3 トンガの近代帝国主義
- 4 イギリス保護領から独立へ
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