ティグラト・ピレセル3世 ティグラト・ピレセル3世の概要

ティグラト・ピレセル3世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 00:06 UTC 版)

ティグラト・ピレセル3世
アッシリア
バビロニア
シュメールとアッカドの王
四方世界の王
世界の王
ティグラト・ピレセル3世。彼の宮殿の壁にあった石碑より(現在は大英博物館収蔵)
在位 紀元前745年 - 紀元前727年

死去 紀元前727年
子女 シャルマネセル5世
サルゴン2世(?)
家名 アダシ王朝?
王朝 新アッシリア帝国、バビロン第10王朝
父親 (伝えられるところでは、非常に疑わしいが)アダド・ニラリ3世
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ティグラト・ピレセル3世は楔形文字表記では𒆪𒋾𒀀𒂍𒈗𒊏 TUKUL.TI.A.É.ŠÁR.RA、アッカド語ではTukultī-apil-Ešarra であり、その名前トゥクルティ・アピル・エシャラは「我が頼りとするはエシャラの息子」を意味する(参考:ヘブライ語: תִּגְלַת פִּלְאֶסֶרTiglat Pil’eser)。

ティグラト・ピレセルは近東地域の多くの国を従属させた。南では同じメソポタミア人であるバビロニアとカルデア、そのさらに南ではアラブ、マガン、メルッハ、アラビア半島ディルムン人。南西ではイスラエルユダペリシテ、サマッラ、モアブ、エドム、ステアン、ナバテアを屈服させた。北ではウラルトゥアルメニア、コーカサス山脈のスキタイ、黒海付近のキンメリア、ナイリが従属した。北西ではヒッタイトフリュギアキリキアコンマゲネ、タバル、コードゥエンスとカリアを含む小アジアの東部と南西部。西では、キプロス等のギリシア人とアラム(現代のシリア)、地中海のフェニキアカナンの都市国家をも従属させた。東ではペルシア、メディアグティウムマンナエ、シッシアとエラムが服属した。治世の後半には、彼はバビロニア王にもなった。

ティグラト・ピレセル3世は、帝国中において何千人もの人を強制移住させ、アッシリアの支配に対する反乱の力的基盤を失わせた。彼は、世界史において最も成功した軍事司令官の一人である。アッシリア人が知る世界の大半を、彼が生きている間に征服した。

出自

紀元前8世紀頃の、新アッシリア帝国の王の系図

ティグラト・ピレセル3世の出自は明らかではない。彼が王碑文の中で前任者に触れないことから、簒奪者ではないかとも言われる。王族の血筋であったのかどうかも定かではない。紀元前745年頃に王都カルフでなんらかの混乱、又は反乱が発生し、結果的にティグラト・ピレセル3世がアッシリア王になったとされる。

ティグラト・ピレセル3世に帰する碑文の中で、彼は自分のことをアダド・ニラリ3世の子としているが、この主張がどれだけ正しいのか、そもそもこの碑文そのものが正確かどうかも不明である。彼は内乱の最中、前745年アヤルの月13日に王位を即位したと推測されている[1][7]

切断されたレンガの碑文は、彼はアダド・ニラリ(3世)の息子であると述べている。しかし、アッシリアの王名表はティグラト・ピレセル3世をアダド・ニラリ(3世)の子であるアッシュル・ニラリ(5世)の子としている。これは、アダド・ニラリ3世をティグラト・ピレセルの治世の4代前に置き、アッシュル・ニラリ(5世)を彼の父であると同時に直前の王であったとする王名表と、実に矛盾している。リストは続き、シャルマネセル3世(4世)とアッシュル・ダン3世が兄弟であり、そして彼らはアダド・ニラリ(3世)の息子であるとも述べている。アッシュル・ニラリ(5世)はアダド・ニラリ(3世)の息子であると述べており、シャルマナセル3世(4世)やアッシュル・ダン3世と兄弟であることを示唆している。アッシリアの記録において、アダド・ニラリ(3世)に関する情報はとても少なく、そしてシャルマネセル3世(4世)やアッシュル・ダン3世については、ない。意義深いことには、1894年にテル・アブタで、ティグラト・ピレセルの名前をシャルマネセル(4世)の名前の上にさらに刻んであるアラバスター製の石碑が発見された。シャルマネセル(4世)はアダド・ニラリ(3世)の後継者であり、そしてティグラト・ピレセル(3世)の3代前の王である。この発見は、前述したシャルマネセル3世(4世)とアッシュル・ダン3世に関する情報の空白につながる。このことは、ティグラト・ピレセル3世は王位簒奪者であったことを強く示唆する。そしておそらく彼は、彼の直前の3代の王、アッシュル・ニラリ5世とシャルマネセル3世(4世)、アッシュル・ダン3世の記録を消したのであろう。

アッシリア学の権威ダニエル・デーヴィッド・ラッケンビルは、そのレンガの碑文について論評して次のように書いた。「・・・我々は、これらの文書がティグラト・ピレセル3世に帰するものだと今でもなお決めつける過ちを犯すのだろうか」[8]

バビロニアにおいて、ティグラト・ピレセル3世はプル、その息子はウルラユと呼ばれた[9]。ティグラト・ピレセル3世をプルとする(列王記下15:19)のは、このほかにトルコのインシルリ(Incirli)におけるフェニキアの碑文第5行があり、そこには「פאל מל[ך] אשר רב (プル、アッシリアの偉大な王)」と書かれている[10]。聖書学の教授、メアリー・キャサリン・Y・H・ホムは、こう述べる。

ティグラト・ピレセル3世をプルと呼ぶものはまれで、時期も遅い。それと同時に、バビロニアとアッシリアの両方における同時代またはほぼ同時代の文書 - 王自身の碑文、アッシリアの王名表と名祖表、バビロン出土の彼の治世中の経済文書、そしてバビロニア年代記では全て、彼をティグラト・ピレセルとしている。さらに言えば、プルはアッシリアではよくある名前であり、このことからすると、プルはティグラト・ピレセル3世の特別な名前ではない可能性は高い。正確にどのように、そしていつプルという名前がティグラト・ピレセル3世と関連付けられたのか、結論づけることはできない。その関係は相対的に遅い時期に起きたようだと、慎重に推論を進める人もおり、その時期はバビロニア王名表Aがつくられた時期(ブリンクマンシップはその時期を紀元前6世紀から紀元前5世紀初めとしている)とする。その関連そのものについては、プルがティグラト・ピレセル3世の名前の2つめの構成要素から生まれた愛称だとするのは、魅力的な仮説にとどまっている。その名をティグラト・ピレセル3世とする使い方は、おそらく後世におけるアッシリア王への称号であり、列王記下15:19におけるプルの使用は時代錯誤だ[11]

(参考)アダド・ニラリ3世からティグラト・ピレセル3世までの時代の王一覧

名前 在位年
アダド・ニラリ3世 前810年~前783年
シャルマネセル4世 前783年~前773年
アッシュル・ダン3世 前772年~前755年
アッシュル・ニラリ5世 前754年~前745年
ティグラト・ピレセル3世 前745年~前727年

改革

ティグラト・ピレセル3世の像。ニムルドにあった王の宮殿から出土した、アラバスター(雪花石膏)の浅浮き彫り
敵の上に立つティグラト・ピレセル3世。ニムルドの中央宮殿から出土した浅浮き彫り。

ティグラト・ピレセル3世は王位に上るにあたり、国家のいくつかの分野において改革を実施し、それによって近東におけるアッシリアの覇権を再生させた。

最初の改革には、アッシリアの高官の権力を制限することが含まれていた。これらの高官の行為は、前王のアッシュル・ニラリ5世の治世においてすでに度を超すようなことがしばしば起きていた。将軍のシャムシ・イルは、アダド・ニラリ3世の時代からタルタンにして突出した高官だったが、しばしば自分自身の遠征軍を率い、彼自身の名で記した石碑を建て、王の意思を完全に無視するもよくあったとされる[12]

ティグラト・ピレセル3世の治世の最初期の碑文から、彼が定期的に征服された属州に総督として宦官を任命したこと、また属州の大きさを小さくすることで高官の権力を減らすことに努めた(北方の属州においては、新たに加わった領土を併合することでその面積が大きくなったケースもいくつかある)ことが知らされている。属州やその総督の数が多くなることにつれ、総督一人当たりの権力は小さくなった。これらの処置により属州政府が中央政府の脅威になる恐れは取り除かれた。また、サンムラマート以来強まっていた宦官の権限を弱体化させた。

2つめの改革は、軍に関連するものであった。夏しか遠征できないアッシリア人によって構成された中央軍の代わりに、ティグラト・ピレセル3世は大量の被征服民を軍隊に組み入れ、多くの外国人部隊を追加した。この部隊は主に軽装歩兵を構成した。また、恐らく同時期に、閲兵用の砦も建設している。その一方で、純粋なアッシリア人は、騎兵、重装歩兵、戦車部隊を構成した。ティグラト・ピレセル3世の軍事改革の結果、アッシリア帝国は、一年を通じて遠征できる、非常に大規模化した軍隊を備えるようになった。もっとも、騎兵隊と戦車隊の追加は、そもそもは北方に潜む遊牧民たちに対抗するための努力の結果によるものだった。遊牧民たちは、騎兵と原始的な戦車を用い、時にアッシリア帝国北方の植民地に侵入してきた。その速度に対抗するためにアッシリア軍もまた、騎兵部隊を用いるようになっていった。


  1. ^ a b Lendering, Jona (2006). The Assyrian King List. Livius.org.
    (オランダの歴史学者ヨナ・レンダリングが開設しているウェブサイトLivius.org 『アッシリア王一覧』)
  2. ^ Tadmor 1994, p. 29.
  3. ^ Healy 1991, p. 17.
  4. ^ ブリタニカ百科事典『メソポタミアの歴史』から、Tiglath-pileser III and Shalmaneser V(ティグラト・ピレセル3世とシャルマネセル5世)
  5. ^ Howard 2002, p. 36.
  6. ^ Schwartzwald 2014, p. 24.
  7. ^ Chisholm 1911, p. 968.
  8. ^ Jones 2004, p. 150.
  9. ^ Nemet-Nejat 1998, p. 38.
  10. ^ Kaufman 2007, pp. 7–26.
  11. ^ Katherine 2018, p. 20.
  12. ^ Shafer 1998, pp. 32–33.
  13. ^ 大英博物館収蔵の壁画” (英語). The British Museum. 2021年8月16日閲覧。
  14. ^ Luckenbill 1927, p. 84.
  15. ^ a b Roux 1992.
  16. ^ Tadmor 1994, p. 43.
  17. ^ Healy 1991, p. 21.


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