ティグラト・ピレセル3世による改革
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「新アッシリア帝国の軍事史」の記事における「ティグラト・ピレセル3世による改革」の解説
詳細は「ティグラト・ピレセル3世」を参照 やがて、アッシリア軍の弱点が露呈し始めた。戦いに次ぐ戦いで重要な兵士が全滅していく一方で、季節による制約のため、決定的な勝利を得ることができないまま短期間のうちに兵士たちを自分の畑に帰さざるを得なかった。帝国は地中海からペルシア湾にまで拡大することもしばしばあったが、帝国の拡大に伴い発生する問題に、紀元前8世紀半ばまでのアッシリアの徴集兵ではうまく対処することができなかった。 全ては、ティグラト・ピレセル3世が王になった紀元前745年に変わった。アッシリアの行政効率を高めた後、彼はアッシリア軍の改革にも着手した。彼の改革において最も重要な点は、常備軍を導入したことである。これには多数の外国人兵士が含まれていたが、彼らもアッシリア人兵士の中に編入された。これらの兵士は属国からの貢納として、あるいはアッシリア王からの要求に応じて提供された。彼らにはアッシリアの装備と軍服が供給された。これにより、誰が外国人であるか、互いに見分けが付かなくなった。もしかするとこの措置により、アッシリア兵士としての一体感が生み出されたかもしれない。常備軍における歩兵には大量の外国人(アラム人や、ギリシア人さえも含む)が採用された一方で、騎兵や戦車部隊は、アッシリア人が多数を占めた。しかしながら例外もあったし、死傷者が増えるにつれて、追加の部隊を歓迎しないわけにはいかなくなった。サルゴン2世は、イスラエルの戦車部隊を60組、自軍に編入したことを伝えている。
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