ゾング号事件 ゾング号事件の概要

ゾング号事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/05 14:53 UTC 版)

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの『奴隷船英語版』。ゾング号事件からインスピレーションを得て海に捨てられた奴隷を描いたもの[1]

概要

ゾング号事件とは、イギリスの奴隷船ゾング号で船員がアフリカ人奴隷を海に捨てて死亡させた事件である。1781年11月29日から合計132人の奴隷が死亡した[注釈 1]。この事件は奴隷貿易の恐ろしさを示す実例として扱われ、またいくつかの芸術作品や文学作品の題材となった。

リヴァプールを拠点とするグレグソンら奴隷商人の集団はゾング号を購入すると大西洋奴隷貿易に使用した。奴隷442人を乗せたゾング号は1781年8月18日にアフリカのアクラを出航したが、11月末にジャマイカを別の島だと誤認して通り過ぎてしまった。その後、ゾング号の船員は11月29日から数日間にわたり奴隷を海に捨てて死亡させた。12月22日にジャマイカのブラック・リバー英語版に到着したときには、ゾング号の奴隷は出航前の半分以下、208人しか残っていなかった。

船の所有者は奴隷に保険をかけており、奴隷の全滅を防ぐために一部の奴隷を「投荷」、つまり海に捨てた場合は保険の補償対象となっていた。そこで、ゾング号の所有者らは死んだ奴隷の分の保険金を支払うよう求めた。だが、保険を引き受けたリヴァプールの商人らは支払いを拒否し、ゾング号側が提訴してこの事件は海上保険の支払いをめぐる法廷闘争となった。コリングウッド船長はジャマイカ到着後に既に死亡しており、乗客のロバート・スタブスと一等航海士のジェームズ・ケルサルの2人が証人となった。第一審では奴隷を海に捨てる行為自体は馬を海に捨てることと変わらないとして問題視されず、「投荷」を行う必然性が争点となったがゾング号側が勝訴した。だが、王座裁判所に上告した後、大雨が降って水を集めた後にも奴隷を海に捨てていたことが判明し、最終的に主席裁判官の初代マンスフィールド伯ウィリアム・マレー英語版は保険金を支払う法的責任はないと判決を下した。

第一審の後、解放奴隷のオラウダ・イクイアーノ英語版が奴隷貿易廃止運動家のグランビル・シャープにこの事件を知らせ、この事件は彼の関心を引くことになった。シャープは船員を奴隷を殺害した罪で裁こうとしたが、彼の取り組みは失敗に終わった。だが、法廷闘争によりこの事件に関心をもつ人々が増え、18世紀後半から19世紀初期のイギリスにおける奴隷廃止運動英語版に影響を及ぼした。1787年奴隷貿易廃止協会英語版設立に続いて、1788年には奴隷貿易を規制する初の法律ドルベン法英語版が議会で可決されて船に乗せる奴隷の人数に上限が設けられ、1794年の改正では奴隷にかける保険の補償対象が制限された。

ゾング号

ゾング号は積載量110トンの角型船尾の船[注釈 2]だった[5]。この船の以前の所有者はオランダのミデルブルフ貿易会社英語版であり、この会社では「ゾルフ (Zorg)」号[注釈 3]という名前が付けられていた。この船はオランダミデルブルフを拠点に奴隷船として運用され、1777年の航海では南アメリカのスリナム沿岸まで奴隷を輸送した[7]1781年2月10日、このオランダ船は英国の16門ガンブリッグ[注釈 4]、アラート号に拿捕され、2隻は2月26日までにガーナケープ・コースト城に到着した[8]。当時この城は王立アフリカ会社 (RAC) が他の城塞や城と共に管理しており[8]、またRACの地方本部として使用されていた[9]

1781年3月上旬、ウィリアム号の船長がリヴァプールの商人らの代理としてゾング号を購入した[10]。ゾング号の所有者となった商人の集団には、エドワード・ウィルソン、ジョージ・ケース、ジェームズ・アスピナル、ウィリアム・グレグソン、ジェームズ・グレグソン、ジョン・グレグソンがいた[11]。ウィリアム・グレグソンは1747年から1780年にかけて50回の奴隷貿易の航海に出資していた。彼は1762年にリヴァプール市長に就任し[12]、また亡くなるまでに彼が経済的利害関係を有していた船によって58201人のアフリカ人が奴隷としてアメリカ大陸に輸送された[13]

ゾング号はすでに積み込まれていた244人の奴隷と共に買い取られ、代金は為替手形で支払われた[10]。出航時点ではゾング号には保険がかけられておらず、航海開始後に保険がかけられることになった[14]。リヴァプールの別の商人らの集まりがゾング号と奴隷の保険を引き受け、奴隷の推定市場価格の約半分にあたる8000ポンドが補償金の上限額とされた[14][15]

船員

ルーク・コリングウッド船長は指揮をとる立場になるのはゾング号が初めてであり、それ以前はウィリアム号で船医として働いていた[16]。コリングウッド船長は航法と指揮を経験したことがなかったが、船医は一般的にアフリカで購入する奴隷を選ぶときに必要とされており、彼らの医学知識は捕虜の「商品価値」を決定する根拠となっていた[17]。船医から不合格とされた捕虜は「商業的死」、つまり無価値なものとされ、アフリカ人の奴隷管理者に殺害されることも多かった[17]。このような奴隷の殺害は時折医師の立会いの下で行われることがあった。コリングウッドが既に奴隷の大量殺害を目にしていた可能性は十分に考えられる。歴史家のジェレミー・クリクラーが言うように、これによりコリングウッド船長は心理的にゾング号で発生した虐殺を許容するだけの心構えができていたのかもしれない[17][18][19]。ゾング号の一等航海士はジェームズ・ケルサルであり、彼もまたウィリアム号に勤務していた人物だった[12]

ゾング号の唯一の乗客ロバート・スタブスは奴隷船船長を務めた経験があった[6]。1780年の初めに、RACのアフリカ委員会はスタブスをガーナのケープ・コースト城に近いイギリスの要塞アノマボ英語版の総督に任命した[9]。スタブスはこの地位に就いたことで、RACのケープ・コースト城評議会の副議長になった[9]。だがケープ・コースト城の総督ジョン・ロバートとの対立と不適格とみなされたことにより、スタブスは9カ月後にRACの評議会によってアノマボ総督を解任された[9][20]。RACアフリカ委員会が集めた証言では、スタブスは要塞での奴隷貿易を正しく管理できておらず、識字能力に問題のある酔っ払いだと非難されており[21]、素行の悪さが解任につながった[6]。彼はイギリスに帰国するため乗船した。コリングウッド船長はスタブスの奴隷船での経験が役に立つだろうと考えていたのかもしれない[9]

ゾング号がアフリカを出航した時点で船員は17人いたが、船の衛生状態を適切に保つには人数があまりにも少なすぎた[22]。奴隷船には病気や奴隷の反乱のリスクがあり、それを厭わない船乗りを英国で集めるのは難しく、船がアフリカ沿岸で拿捕されたオランダ船だと知られるとさらに困難になった[23]。結局、ゾング号にはオランダの元船員の残り、ウィリアム号の船員、アフリカ沿岸の村落から雇われた失業していた船乗りが乗船することになった[14]


注釈

  1. ^ ただし、このうち10人は自ら海に飛び込んだとされている[2]。人数には出典によって多少の差がみられる。ゾング号の一等航海士ジェームズ・ケルサルは後に「死者数は全体で最大142人にのぼる」と証言している[3]。また、133人が海に捨てられたとしている出典もあるが、こちらは船によじ登って生き延びたとされる奴隷1人も数に含めている[4]
  2. ^ 原文はsquare stern ship(スクウェア・スターンの船)。
  3. ^ オランダ語の「Zorg」は英単語の「Care」「Worry」にあたる[6]
  4. ^ 船の種類。詳細はイギリス海軍のガンブリッグの一覧英語版参照。「ガン(gun)」は「大砲、火砲」、「ブリッグ(brig)」は帆船の一種(ブリッグ (船)参照)。
  5. ^ 出航時点での奴隷の人数には異説もある。例えば、Erin M. Fehskensは2012年の著作で470人、442人、または440人と記載している[24]
  6. ^ 翻訳元のen:Zong massacreでは3日後になっていたが、同じ出典を使用している児島秀樹の論文では7日後となっていたため、ここでは数日後としておく。
  7. ^ 投げ荷による損害を補償する仕組みについては共同海損を参照。
  8. ^ スタブスは法廷で証言し、ケルサルは保険者が上告した裁判で宣誓供述書英語版を作成した[47]
  9. ^ 訳者注:大衆の奴隷貿易への無関心さが初期の奴隷廃止主義者にとって解決すべき課題となっていたという意味だと思われる。ドレシャーによれば、1783年から奴隷貿易廃止協会が設立された1787年までの間、英国の大衆は奴隷貿易にほぼ関心がなかったという[83]

出典

  1. ^ Burroughs 2010, p. 106.
  2. ^ a b c d e f g h 児島秀樹 2013, p. 28.
  3. ^ a b c d e Lewis 2007, p. 364.
  4. ^ “Abolition Watch: Massacre on the 'Zong' - outrage against humanity”. Jamaica Gleaner News (Gleaner Company英語版). (2007年7月1日). オリジナルの2010年2月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100228085824/http://www.jamaica-gleaner.com/gleaner/20070701/arts/arts5.html 2018年5月25日閲覧。 
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  6. ^ a b c d e f g 児島秀樹 2013, p. 27.
  7. ^ Webster 2007, p. 287.
  8. ^ a b Lewis 2007, p. 359.
  9. ^ a b c d e Walvin 2011, pp. 76–87.
  10. ^ a b Lewis 2007, p. 360.
  11. ^ Walvin 2011, p. 217.
  12. ^ a b Lewis 2007, p. 358.
  13. ^ Walvin 2011, p. 57.
  14. ^ a b c d Lewis 2007, p. 361.
  15. ^ Walvin 2011, pp. 70–71.
  16. ^ Lewis 2007, pp. 358, 360.
  17. ^ a b c Krikler 2012, p. 409.
  18. ^ Krikler 2007, p. 31.
  19. ^ Walvin 2011, p. 52.
  20. ^ Lewis 2007, pp. 359–360.
  21. ^ Walvin 2011, pp. 82–83.
  22. ^ Krikler 2012, p. 411.
  23. ^ Walvin 2011, pp. 45–48, 69.
  24. ^ Erin M. Fehskens (2012). “ACCOUNTS UNPAID, ACCOUNTS UNTOLD: M. NourbeSe Philip's Zong! and the Catalogue”. Callaloo英語版 35 (2): 407-424. https://www.jstor.org/stable/pdf/23274289.pdf?seq=1#page_scan_tab_contents. 
  25. ^ Webster 2007, p. 289.
  26. ^ a b Walvin 2011, p. 27.
  27. ^ a b Lewis 2007, pp. 362–363.
  28. ^ a b Walvin 2011, p. 87.
  29. ^ Walvin 2011, p. 90.
  30. ^ Walvin 2011, pp. 77, 88.
  31. ^ Walvin 2011, pp. 89–90.
  32. ^ a b Lewis 2007, p. 363.
  33. ^ Walvin 2011, p. 92.
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  47. ^ Walvin 2011, pp. 85, 155.
  48. ^ Walvin 2011, p. 95.
  49. ^ 児島秀樹 2008, p. 109.
  50. ^ a b Krikler 2007, p. 39.
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