ゾング号事件 航海

ゾング号事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/05 14:53 UTC 版)

航海

1781年8月18日、ゾング号は奴隷442人[注釈 5]を乗せてアクラを出航したが、乗船人数は安全に航行できる人数の2倍を超えていた[14]。1780年代、イギリス製の船は1トンあたり1.75人の奴隷を乗せるのが一般的だったが、ゾング号の場合は1トンあたり約4人を積み込んでいた[25][2]。この時代のイギリスの奴隷船は1隻あたり193人前後の奴隷を輸送しており、比較的サイズの小さいゾング号がこれだけの大人数を輸送していたのは極めて異例のことだった[26]中間航路での奴隷の死亡率が平均的な数値におさまったのが不思議なほどの相当厳しい環境であった[2]

サントメで飲料水を積み込んだ後、9月6日にゾング号は出航して大西洋を横断してジャマイカへ向かう航路をとった[27]カリブ海海域に到達するまでに、ゾング号では奴隷60人以上と船員7人が死亡していた[2]。奴隷の死亡率は約13%と中間航路としては平均的な数字だったが、船員の死亡率が約4割と高いことから明星大学の児島秀樹は他に何か別の事件が起きていたかもしれないと推測している[2]。11月の18日か19日にゾング号はカリブ海のトバゴ島付近を通過したものの、寄港に失敗して水を補給することができなかった[27]

コリングウッド船長は重い病を患っていたが[28]、このとき船を代わりに管理していた人物がいたのか、いたとすればそれは誰なのかは判明していない[29]。通常であれば一等航海士、つまりゾング号の場合はジェームズ・ケルサルが船長の代理を務めるものだが、彼は11月14日の議論の後に職務停止処分を受けていた[28]。ロバート・スタブスは数十年前に奴隷船の船長を務めた経験があり、コリングウッド船長が働くことができない間一時的にゾング号の指揮をとったことがあったが、彼の名前は船員の名簿には記載されていなかった[30]。歴史家のジェームズ・ウォルビンによれば、このような指揮系統の崩壊がその後の航行ミスと飲料水補給の確認不足につながったのかもしれない[31]

虐殺

カリブ海の地図。トバゴ島(右下)、イスパニョーラ島(赤)、ジャマイカ島(青)が表示されている。

11月27日か28日に船員が27海里 (50 km)離れたジャマイカを発見したが、イスパニョーラ島のフランス植民地サン=ドマングだと誤認してしまった[32][33]。ゾング号は西方に向かう航路を進み続け、ジャマイカから離れた。この誤解が発覚したのは、船がジャマイカから風下に300マイル (480 km)離れた後のことだった[32]。過密状態、栄養失調、事故、病気により既に数人の船員と約62人のアフリカ人が死亡していた[34]。後のジェームズ・ケルサルの主張によれば、このミスが発覚した時点でゾング号はジャマイカまで10-13日かかる地点にいたが、船には4日分しか水が残っていなかったという[35]

奴隷454人を輸送した奴隷船ブルックス号英語版。1788年のドルベン法英語版以前、ブルックス号は609人の奴隷と267トンの積荷を輸送し、積載量1トンあたり奴隷2.3人になっていた。一方、ゾング号は442人の奴隷と110トンの積荷を運んでおり、1トンあたり奴隷4.0人だった[26]

11月29日、船員らが集まって奴隷の一部を海に捨てる案について検討した[36]。ジェームズ・ケルサルの主張によれば、彼は当初計画に反対していたが、すぐに満場一致で可決されたという[37][36]。この日、女性と子供54人が海に捨てられた[3]。12月1日に42人の男性奴隷が船外へ捨てられ、その後数日間でさらに36人が捨てられた[3]。また、奴隷船での非人道的行為に反発した奴隷10人が海へと飛び込んだ[3]。水中へと放り込まれる犠牲者たちの悲鳴を聞いて、海へ投げ込むくらいなら残りのアフリカ人の食事と水を一切断ってほしいと1人の奴隷が懇願したが、船員はその懇願を無視した[38]。12月9日までに合計132人のアフリカ人奴隷が海に捨てられた[2]。王座裁判所の報告書によれば、1人の奴隷がよじ登って何とか船に戻ったという[39]

当時、「投げ荷」は海上保険の補償対象であり、船長の権限で行われることになっていた[2]。船員の主張によれば、船には残りの航海の間全ての奴隷を生かしておけるだけの十分な水がなかったために奴隷を「投げ荷」したのだという。だが、後にこの主張に対して反論があった。12月22日にジャマイカに到達した時点で船には420英ガロン (1,900 l) の水が残っていた[37]。後にケルサルが作成した宣誓供述書によれば、42人の奴隷が殺害された12月1日に1日以上にわたり大雨が降り、たる6個分、11日分の水を集めることができたという[37][40]

ジャマイカ到着

1781年12月22日、ゾング号はジャマイカのブラック・リバー英語版に到着したが、奴隷は当初の半分以下の208人になっていた[3]。ゾング号が運んできた奴隷は1人あたり平均36ポンドで売却された[5]。コリングウッド船長はジャマイカ到着の数日後に死亡し[注釈 6][41][6]、ゾング号は新たな船長の指揮下でリヴァプールに戻った[2]。ジャマイカの植民地海事裁判所は英国がオランダからゾング号を拿捕したことは合法だと確認し、組合はこの船を「リチャード・オブ・ジャマイカ号」に改名した[5]


注釈

  1. ^ ただし、このうち10人は自ら海に飛び込んだとされている[2]。人数には出典によって多少の差がみられる。ゾング号の一等航海士ジェームズ・ケルサルは後に「死者数は全体で最大142人にのぼる」と証言している[3]。また、133人が海に捨てられたとしている出典もあるが、こちらは船によじ登って生き延びたとされる奴隷1人も数に含めている[4]
  2. ^ 原文はsquare stern ship(スクウェア・スターンの船)。
  3. ^ オランダ語の「Zorg」は英単語の「Care」「Worry」にあたる[6]
  4. ^ 船の種類。詳細はイギリス海軍のガンブリッグの一覧英語版参照。「ガン(gun)」は「大砲、火砲」、「ブリッグ(brig)」は帆船の一種(ブリッグ (船)参照)。
  5. ^ 出航時点での奴隷の人数には異説もある。例えば、Erin M. Fehskensは2012年の著作で470人、442人、または440人と記載している[24]
  6. ^ 翻訳元のen:Zong massacreでは3日後になっていたが、同じ出典を使用している児島秀樹の論文では7日後となっていたため、ここでは数日後としておく。
  7. ^ 投げ荷による損害を補償する仕組みについては共同海損を参照。
  8. ^ スタブスは法廷で証言し、ケルサルは保険者が上告した裁判で宣誓供述書英語版を作成した[47]
  9. ^ 訳者注:大衆の奴隷貿易への無関心さが初期の奴隷廃止主義者にとって解決すべき課題となっていたという意味だと思われる。ドレシャーによれば、1783年から奴隷貿易廃止協会が設立された1787年までの間、英国の大衆は奴隷貿易にほぼ関心がなかったという[83]

出典

  1. ^ Burroughs 2010, p. 106.
  2. ^ a b c d e f g h 児島秀樹 2013, p. 28.
  3. ^ a b c d e Lewis 2007, p. 364.
  4. ^ “Abolition Watch: Massacre on the 'Zong' - outrage against humanity”. Jamaica Gleaner News (Gleaner Company英語版). (2007年7月1日). オリジナルの2010年2月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100228085824/http://www.jamaica-gleaner.com/gleaner/20070701/arts/arts5.html 2018年5月25日閲覧。 
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  6. ^ a b c d e f g 児島秀樹 2013, p. 27.
  7. ^ Webster 2007, p. 287.
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  9. ^ a b c d e Walvin 2011, pp. 76–87.
  10. ^ a b Lewis 2007, p. 360.
  11. ^ Walvin 2011, p. 217.
  12. ^ a b Lewis 2007, p. 358.
  13. ^ Walvin 2011, p. 57.
  14. ^ a b c d Lewis 2007, p. 361.
  15. ^ Walvin 2011, pp. 70–71.
  16. ^ Lewis 2007, pp. 358, 360.
  17. ^ a b c Krikler 2012, p. 409.
  18. ^ Krikler 2007, p. 31.
  19. ^ Walvin 2011, p. 52.
  20. ^ Lewis 2007, pp. 359–360.
  21. ^ Walvin 2011, pp. 82–83.
  22. ^ Krikler 2012, p. 411.
  23. ^ Walvin 2011, pp. 45–48, 69.
  24. ^ Erin M. Fehskens (2012). “ACCOUNTS UNPAID, ACCOUNTS UNTOLD: M. NourbeSe Philip's Zong! and the Catalogue”. Callaloo英語版 35 (2): 407-424. https://www.jstor.org/stable/pdf/23274289.pdf?seq=1#page_scan_tab_contents. 
  25. ^ Webster 2007, p. 289.
  26. ^ a b Walvin 2011, p. 27.
  27. ^ a b Lewis 2007, pp. 362–363.
  28. ^ a b Walvin 2011, p. 87.
  29. ^ Walvin 2011, p. 90.
  30. ^ Walvin 2011, pp. 77, 88.
  31. ^ Walvin 2011, pp. 89–90.
  32. ^ a b Lewis 2007, p. 363.
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  48. ^ Walvin 2011, p. 95.
  49. ^ 児島秀樹 2008, p. 109.
  50. ^ a b Krikler 2007, p. 39.
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  101. ^ Garrow's Law”. BBC. 2012年12月28日閲覧。
  102. ^ Mark Pallis (2010年11月12日). “TV & Radio Blog: Law draws from real-life court dramas”. The Guardian. 2010年11月19日閲覧。
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