スイスの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/08 10:49 UTC 版)
宗教改革の嵐(1523年-1648年)
宗教改革者フルドリッヒ・ツヴィングリはもともと1518年にチューリッヒの大聖堂の説教師として招聘された。1523年に始まるツヴィングリの宗教改革運動はチューリッヒ市の政治体制と不可分の政教一致運動でもあった。ツヴィングリの始めた改革運動は他の州にも拡大したが、森林五州とよばれる5つの州は従来のカトリック信仰の保持を表明した。プロテスタント諸州とカトリック諸州は争いを避けようと交渉を繰り返したが、自らの力を頼みとするチューリッヒがプロテスタント陣営の中でも独走気味となった。1529年の第一次カッペル戦争はぎりぎりのところで交戦が回避されたが、ついに1531年の第二次カッペル戦争でチューリッヒ軍がカトリック連合軍と激突し、ツヴィングリ自身も戦死した。1531年に和平協定であるカッペル協定が結ばれ、スイスにおいてカトリックとプロテスタントは互いを攻撃することなく共存していく体制を作ることで合意した。ここでは各邦が宗教問題に対応すると決められ、アウクスブルクの和議の先取りとなった。また、この決定により、西南ドイツ都市と締結していた同盟は破棄され、ツヴィングリの死(西南ドイツ都市はルター派の影響下となる)とともにスイスが神聖ローマ帝国から分離していく原因の一つとなった。このころ、ジャン・カルヴァンが指導していたジュネーヴが盟約者団の一員として加わった。1560年、森林五州はサヴォイア公国と同盟した(ボロメオ同盟)。
1602年、サヴォイアがジュネーヴを奇襲したが失敗。1604年、森林五州はヴァリスをカトリック側へ連れ戻した。 三十年戦争(1618年-1648年)の前菜に、ユグノーと和解したリシュリューがサヴォイアを攻撃した。また、多くのスイス傭兵の血が流れた。三十年戦争で勇名を馳せたスウェーデン王グスタフ2世アドルフの軍には、多くのスイス人傭兵が参加していた。プロテスタント陣営に優勢をもたらしたグスタフ・アドルフは、スイス人の多勢を占めるゲルマン人とスウェーデン人の祖先を同一視させる政策(古ゴート主義)をとった。この王の死後、フランスでもスイス人の傭兵を得るために同様の政策をとり、スイスの独立を後押しした。 三十年戦争の最中、スイスは「武装中立」という立場を初めて公式に宣言した。そして、中立を維持するための国境防衛軍として連邦軍が創設された。
- ^ 現代でもアヴァンシェではローマ時代の遺跡を見ることができる。
- ^ この時点ではAssociate Memberで、1513年のアッペンツェル同盟でfull memberとなる
- ^ 伝統的にスイスの諸州の表記は連邦への加入順にされている。初めに原初同盟の最初の8つの州と都市があげられ、1481年以降に加入した州が時代順にならぶ。
- ^ スイス人傭兵というものが存在しなくなった現在でも、教皇の衛兵は伝統的にスイス人が務めている
- ^ ナポレオン調停法は、ナポレオンに対し兵員(1万6000人)を提供するという軍事協定でもあった。
- ^ ヴォー州ではカントンレベルでその日のうちに参政権が認められた。ヌーシャテルとジュネーヴが直ちに続き、バーゼルがやや遅れて女性の投票権を受け入れた。
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