スイスの歴史
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ナポレオン時代(1798年-1848年)
フランス革命が起こると、その影響はスイスへも波及した。フランスの革命軍はオーストリア帝国との戦いを通じてスイスを脅かした。1798年3月にベルンが落とされ、やがて総裁政府がヘルヴェティア共和国を設立した。啓蒙思想の革命家が従来の地方自治制を廃して中央集権政府の確立を目指し、言葉の壁と人材の不足から不徹底におわった。1800年1月から分権派によるクーデターが続き、財政を困窮させながら共和国は崩れた。
1803年、第1統領のナポレオン・ボナパルトが調停者となり、スイス各州の指導者がパリに集まって協定を結び、スイスは地方自治の体制に戻った(ナポレオン調停法)[5]。このとき、それまで共同支配地とされて格下の扱いだったアールガウ州、トゥールガウ州、グラウビュンデン州、ザンクト・ガレン州、ヴォー州、ティチーノ州が同格のカントンとして同盟の一員に加えられた(新カントン)。
1815年、ナポレオン戦争後のヨーロッパについて協議したウィーン会議で、スイスの独立が改めて確認されると共に、永世中立国として国際的に認められた。このとき、ヴァレー州・ヌーシャテル州・ジュネーヴ州がフランスからスイス連邦に返還された。フランスの逆襲に備え、スイスはサルデーニャ王国の上サヴォイア地方の中立を保護する役を与えられた。失地として、ミュルーズがアルザスに編入された。グラウビュンデンのアルプス南側にある3つの代官区も、285年におよぶ自治権を奪われイタリア王国に組み込まれた。この年に画定された国境線は今でも維持されている。同年、新旧カントンの妥協により同盟規約が成った。カントン間の軋轢は狭い国土に非関税障壁を蔓延らせた。このころにスルザーなどが創業した。
フランスの7月革命をきっかけに、およそ半数のカントンでブルジョワの改憲運動が起こった。ここから同盟規約が綻びだした。1841年、アールガウの急進派政府が一度に8つの修道院を廃止した。これは同盟規約の第12条に真っ向から違反した。盟約者団会議は4つの女子修道院を救済したが、しかしカトリックが劣勢であることに変わりなかった。1844年にイエズス会を招いたルツェルンには周囲のカントンから義勇軍が殺到した。義勇軍はルツェルン市民の決意を挫くことができなかった。するとスイス全土が無政府状態に陥った。カトリック派のカントンは1845年12月に保護同盟を結成した。
- ^ 現代でもアヴァンシェではローマ時代の遺跡を見ることができる。
- ^ この時点ではAssociate Memberで、1513年のアッペンツェル同盟でfull memberとなる
- ^ 伝統的にスイスの諸州の表記は連邦への加入順にされている。初めに原初同盟の最初の8つの州と都市があげられ、1481年以降に加入した州が時代順にならぶ。
- ^ スイス人傭兵というものが存在しなくなった現在でも、教皇の衛兵は伝統的にスイス人が務めている
- ^ ナポレオン調停法は、ナポレオンに対し兵員(1万6000人)を提供するという軍事協定でもあった。
- ^ ヴォー州ではカントンレベルでその日のうちに参政権が認められた。ヌーシャテルとジュネーヴが直ちに続き、バーゼルがやや遅れて女性の投票権を受け入れた。
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