スイスの歴史 アンシャン・レジーム(1648年-1798年)

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > スイスの歴史の解説 > アンシャン・レジーム(1648年-1798年) 

スイスの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/08 10:49 UTC 版)

アンシャン・レジーム(1648年-1798年)

1648年ウェストファリア条約でスイスは法的にも神聖ローマ帝国から独立した。

1653年ルツェルンベルン・ソロトゥルン・バーゼルに属する共同支配地の農民たちが通貨の切り下げに反発して蜂起した。反乱軍はルツェルンとベルンを囲んだが、やがて和解した。1656年1712年ヴィルメルゲンの戦い英語版で、再び農民が蜂起した。英仏でユグノーが台頭する陰でスペイン・ハプスブルク家は凋落していた。1531年のカッペル協定を打破したいベルンとチューリッヒが、そこで1656年の戦いを利用し軍事的決着を試み失敗した。フォンテーヌブローの勅令が出てプロテスタントの都市邦が一気に経済力を増した。カトリックで工業化したのはゾロトゥルンだけだった。1712年スペイン継承戦争の間隙を縫い、ベルンとチューリッヒがヴィルメルゲンに凄絶な電撃戦を展開した。森林五州を破ってバーデンの共同統治枠から追放し、地理的にオーストリアから切り離した。チューリッヒはスイス東部全域でプロテスタント住民に対する教会裁判権を獲得した。ベルンも行政に関わるようになった。森林五州は講和条約にもかかわらず勝手に五州の同盟を更新し、フランスとも連邦名義で秘密協定を結んだ。このとき森林五州は更新の条件として失われた地方代官区の権限回復を頑なに要求した。これが災いして、スイス連邦全体がフランスと結んでいた本当の同盟がルイ14世の死後に期限切れとなってから約半世紀も更新できなくなった。1781年、ジュネーヴでブルジョワらの間接民主制が成るも、翌年にフランス・サヴォイア・ベルンの連合軍が包囲・陥落した。


  1. ^ 現代でもアヴァンシェではローマ時代の遺跡を見ることができる。
  2. ^ この時点ではAssociate Memberで、1513年のアッペンツェル同盟でfull memberとなる
  3. ^ 伝統的にスイスの諸州の表記は連邦への加入順にされている。初めに原初同盟の最初の8つの州と都市があげられ、1481年以降に加入した州が時代順にならぶ。
  4. ^ スイス人傭兵というものが存在しなくなった現在でも、教皇の衛兵は伝統的にスイス人が務めている
  5. ^ ナポレオン調停法は、ナポレオンに対し兵員(1万6000人)を提供するという軍事協定でもあった。
  6. ^ ヴォー州ではカントンレベルでその日のうちに参政権が認められた。ヌーシャテルとジュネーヴが直ちに続き、バーゼルがやや遅れて女性の投票権を受け入れた。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「スイスの歴史」の関連用語

スイスの歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



スイスの歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのスイスの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS