オストロフ (リウネ州)とは? わかりやすく解説

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オストロフ (リウネ州)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 15:51 UTC 版)

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オストロフ
Острог
座標 : 北緯50度20分 東経26度31分 / 北緯50.333度 東経26.517度 / 50.333; 26.517
歴史
史料初出 1100年
1795年
行政
 ウクライナ
  リウネ州
 地区 オストロフ地区
 市 オストロフ
人口
人口 (2013現在)
  市域 15711人
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
市外局番 3654
ナンバープレート НК / 18
位置図

オストロフウクライナ語: Острог)はウクライナリウネ州オストロフ地区(ru)の市(місто)である。同地区の中心市であるが、行政機構上は同地区内には含まれない。人口は2013年時点でおよそ15700人。中世にはオストログスキ家の所領となっていた。

地理

市の面積は10.9km2。州都リウネからは55km、首都キエフからは329kmの位置にある[1]。14kmの位置にはオストロフ駅(uk)がある。

歴史

史料上の初出は『イパーチー年代記』の1100年の項であり、ダヴィド・イーゴレヴィチの所領となったことが記されている。また『グストィニャ年代記(ru)[注 1]』の1340年の項には、オストログスキ家に関する最初の言及が見られる。この年、オストログスキ家のダヌィーロ(ru)は、ハールィチにおいてポーランド王カジミェシュ3世の軍に勝利した。

15世紀に建設されたオストロフ・シナゴーグ(参照:シナゴーグ)は、当時の東欧で最大級のものの1つであった[2]

1576年、オストログスキ家のコンスタンティ = ヴァシーリによって、東欧で最初の高等教育施設であるオストロフ大学(ギリシャ語・スラヴ語・ラテン語のアカデミー。現オストロフ国立大学(ru)の前身に位置づけられている。)が、翌年にはコンスタンティとイヴァン・フョードロフ(ru)によってオストロフ活版印刷所(ru)が建設された。彼らは1581年には教会スラヴ語による『オストロフ聖書』(ru)の初版を印刷している[注 2]

1897年には14749人が住んでおり、うちユダヤ人9185人、ウクライナ人2446人、ロシア人2199人、タタール人176人だった[3]

1941年9月1日にはナチスがこの地でホロコーストを行い2500人のユダヤ人が虐殺された。

史跡

  • オストロフ城(ru)

ゆかりの著名人

脚注

注釈

  1. ^ 「グストィニャ年代記」はロシア語: Густынская летопись(書名はГустыняという地名に由来)の直訳による。(ウクライナ語:Густиня / フストィニャ)。
  2. ^ 「オストロフ大学」はロシア語: Острожская школаの意訳、「オストロフ活版印刷所」はロシア語: Острожская типографияの直訳、「オストロフ聖書」はロシア語: Острожская Библияの直訳による。

出典

参考文献

  • Логвин. Г. Н. Острог. — Киев: «Мистецтво», 1966. — 8 с.



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