ウィリアム・ダラント ウィリアム・ダラントの概要

ウィリアム・ダラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/19 04:14 UTC 版)

ウィリアム・ダラント
William Durant
誕生 (1885-11-05) 1885年11月5日
アメリカ合衆国
マサチューセッツ州ノースアダムズ
死没 1981年11月7日(1981-11-07)(96歳)
アメリカ合衆国
カリフォルニア州ロサンゼルス
職業 歴史家、著作家、哲学者、教師
国籍 アメリカ合衆国
最終学歴 セントピーターズ・カレッジ(1907年卒、学士)
コロンビア大学(1917年修了、哲学博士)
ジャンル ノンフィクション
主題 歴史、哲学、宗教
文学活動 哲学他
配偶者 アリエル・ダラント
子供 エセル・ダラント
ウィキポータル 文学
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ダラントは哲学について全体像の感知、すなわち物事を「sub specie totius」(全的相の下に)見るものと考えた。これはバールーフ・デ・スピノザの「sub specie aeternitatis」(永遠の相の下に)という成句にヒントを得たものだった。ダラントは歴史に関する知識の大きな実態を統一し人格化することを求めた。それは膨大な量に成長しており、深遠な専門分野に細分化されていたので、それを時代に合わせるために活性化させようとした[2]

ダラント夫妻は1968年にピューリッツァー賞 一般ノンフィクション部門で受賞し、1977年には大統領自由勲章を贈られた。

初期の経歴

ダラントは1885年11月5日に、マサチューセッツ州ノースアダムズで、フランス系カナダ人のカトリック教徒の家に生まれた[3]。父はジョセフ・ダラント、母はメアリー・アラードであり、カナダケベック州からアメリカ合衆国に大挙移住してきた民に属していた。

1900年、ダラントは、ニュージャージー州ジャージーシティのセントピーターズ準備学校、後のセントピーターズ・カレッジでイエズス会の教育を受けた。歴史家のジョーン・ルービンはこの時期について、「いくらか若者らしい浮かれがあったものの、母が彼にそうあって欲しいと願ったことを実現すると約束できる職業、すなわち聖職者について準備を始めていた。その方法で進み始めるにあたって、イェール大学コロンビア大学の上流階級の修行からは遠く離れ、自身の環境の中で相当する文化的な権限を提供したと論じられるかもしれない」と記している[4]

1905年、ダラントは社会主義哲学での実験を始めたが、第一次世界大戦後、「権力への欲望」があらゆる形態の政治挙動の下にあると認識するようになった[4]。しかし、戦前であっても、「彼の感受性の別の側面が、自分の急進的な傾向と競合した」とルービンは記している。ルービンは「それらの中で最も具体的なものは哲学に向けたた執拗な指向だった」と付け加えた。スピノザに傾注したそのエネルギーにより、バクーニンにはほとんど興味を示さなかった。この時代から「彼の自我のモデルを保持することは、『貴方自身である』ことを差し止めるアナーキストに同調できなくした鍛錬に基礎を置いていた。」と記している。ダラントは、「人の慎重な自己であることは、『我々の熱情の奴隷になる』衝動の『上に行く』ことを意味し、『勇気ある傾倒』の代わりに同義的な大義で行動することを意味している」と説明していた[4]

ダラントは1907年に卒業した。アーサー・ブリスベーンの「ニューヨーク・イブニング・ジャーナル」で、週給10ドルで記者を務めた。この「イブニング・ジャーナル」では性犯罪に関する記事を幾つか書いた。1907年ニュージャージー州サウスオレンジのシートン・ホール大学ラテン語フランス語英語幾何学の教師を始めた。

教師としての経歴

ニューヨーク市のモダン・スクール、1911年または1912年、ダラントが生徒と共に立っている。この写真は雑誌「モダン・スクール」の表紙に使われた

1911年、ダラントは大学を離れた。労働者階級の子弟を教育するための先進的な学校であるフェラー・モダン・スクールの校長になった。そこでは教師も兼ねていた。この学校の支持者であるアルデン・フリーマンがダラントのヨーロッパ旅行を後押ししてくれた[5]。モダン・スクールでは、15歳の生徒チャヤ・(アイダ)・カウフマンと恋に落ちて結婚した。彼女は後にアリエルというニックネームで呼ばれた。この夫妻には娘のエセルが生まれ、また息子のルイスを養子にした。

1914年までに、「人間の悪徳の暗示」を拒否するようになっていたと、ルービンが記しており、「急激な社会変化からは身を退く」ようになっていた。ルービンは彼の哲学におけるこれらの変化を次のように要約していた。

人間の進歩をプロレタリアートの隆盛に結びつける代わりに、幼い子供の笑い声から避けられない結果にするか、かれの両親の結婚の忍耐にするかだった。後にアリエル・ダラントが要約したように、彼の30代半ばまでに、彼の人生の残りで精神的な化学を支配した感傷的で理想化する愛の混ざり合い、哲学、キリスト教、および社会主義を混ぜ合わせていた。 これらの属性は最終的に、急進主義を代用の信仰とすることから、また若いアナーキストを代替的職業として教えることから遠ざけることになった。その代りに、1913年遅くに別の追求を始めた。文化の普及ということだった。[4]

1913年、ダラントは教師の職を辞した。暮らしを建てるために、長老派教会で5ドルないし10ドルの料金で講義を始めた。この講義の材料が『文明の話』の出発点になった。


  1. ^ Other sources say it was in 1949[8]
  1. ^ a b Rogers, Will (1966). Gragert, Steven K. ed. The Papers of Will Rogers. University of Oklahoma Press. p. 393 
  2. ^ Durant, Will (1935). Our Oriental Heritage. Simon & Schuster. p. vii 
  3. ^ https://ffrf.org/news/day/dayitems/item/14888-will-durant
  4. ^ a b c d Rubin, Joan Shelley. The Making of Middlebrow Culture, Univ. of North Carolina Press (1992)
  5. ^ Durant, Will (1935). Our Oriental Heritage. Simon and Schuster. p. 1051 
  6. ^ Norton, Dan (Spring 2011), “A Symphony of History: Will Durant’s The Story of Civilization”, The Objective Standard 6 (1): 3rd paragraph, http://www.theobjectivestandard.com/issues/2011-spring/a-symphony-of-history-will-durants-the-story-of-civilization/ 2012年5月29日閲覧。 .
  7. ^ WUACC, http://ktwu.wuacc.edu/journeys/scripts/412b.html .
  8. ^ a b Interdependence, Will Durant foundation, オリジナルのMarch 10, 2012時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20120310225853/http://www.willdurant.com/interdependence.htm .
  9. ^ (PDF) Declaration, Will Durant foundation, オリジナルのDecember 18, 2011時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20111218080336/http://www.willdurant.com/decenglish.pdf .
  10. ^ Durant, Will. “Persia in the History of Civilization” (PDF). Addressing Iran-America Society. Mazda Publishers. 2015年9月5日閲覧。
  11. ^ The Story of Civilization, V. 1., 71. See also this article's Discussion page.
  12. ^ “Epilogue—Why Rome fell”, The Story of Civilization, 3 Caesar And Christ, "A great civilization is not conquered from without until it has destroyed itself within. The essential causes of Rome's decline lay in her people, her morals, her class struggle, her failing trade, her bureaucratic despotism, her stifling taxes, her consuming wars." 
  13. ^ Durant, Will. Popular Science, Oct. 1927.
  14. ^ Durant, Will. Our Oriental Heritage, 1963, MJF Books; p. 300 (footnote).
  15. ^ Bibliography”. 2013年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月5日閲覧。
  16. ^ (英語) Jamiroquai - High Times, https://www.youtube.com/watch?v=URThII4DlBA 2022年10月29日閲覧。 


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