ウィリアム・ダラント 著作活動

ウィリアム・ダラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/19 04:14 UTC 版)

著作活動

1917年、ダラントはコロンビア大学で哲学の博士課程に進みながら、最初の著作である『哲学と特別問題』を執筆した。哲学は社会の現実にある問題を避けていたので十分成長してこなかったという概念を論じた。同年、コロンビア大学から博士号を取得した[6]。同大で講師も務めていた。

『哲学の話』

『哲学の話』は「リトル・ブルー・ブックス」シリーズ(労働者を対象にした教育パンフレット)として始まり、人気が出たので、1926年にハードカバーとしてサイモン & シャスターが再度出版して[7]ベストセラーとなり、それでダラントは財政的に独立を果たせたので、世界を数回旅し、『文明の話』を書くために数十年間を費やす余裕ができた。教師の仕事を辞め、11巻本となった『文明の話』の執筆を始めた。1940年代初期にはほぼ10年間近くをかけて人権に関する『相互依存の宣言』の原稿を書いた。これは「ブラウン対教育委員会事件」の判決が出て、アメリカの公民権運動に火がつけられる前のことだった。この『宣言』は1945年10月1日に連邦議会議事録に掲載された。

『文明の話』

ダラント夫妻は彼らの言う「一体の歴史」を創るために『文明の話』を通じて骨を折った。歴史の「特殊化」に対する極におき、「専門家の信仰」と言われてきたものを前もって拒否した。その目的は文明の「伝記」を書くことであり、この場合、通常の戦争、政治、偉大さや悪事の伝記ばかりでなく、文化、芸術、哲学、宗教、さらにはマスコミの興隆までを含む西洋文明を論じた。『文明の話』の大半は、それが検討した2,500年間の毎日の人々の生活状態を検討している。その証言には臆面も無く道徳的な枠組みも持ち出しており、「弱者に対する強者の支配、単純な者に対する賢者の支配」の反復を常に強調している。『文明の話』は最も成功した史料編纂シリーズである。このシリーズはサイモン & シャスターを出版社としてひとかどの会社にしたと言われてきた。全11巻本の省略しないオーディオブックがブックス・オン・テープ Inc. によって制作され、アレクサンダー・アダムズ(別名グロバー・ガードナー)が読み上げた。

『文明の話』はその文体のすばらしさ、さらにダラントが称賛したローマとルネサンスの作家の多くの格言を含んでいることでも注目に値する。「ルネサンス」の章(137ページ)でサンドロ・ボッティチェッリの性格におけるある種矛盾性を論じ、「我々の全てと同様、疑いも無く彼は多くの人物であり、その時の状況に応じて自分をある者に、またある者に転じており、本当の自分は世界から驚くべき秘密を保っている。」と記している。

『文明の話』の第10巻、『ルソーと革命』(1967年)についてはピューリッツァー賞の文学部門を受賞した。1977年、アメリカ合衆国政府から市民に与えられる最高の栄誉の1つ、大統領自由勲章ジェラルド・フォード大統領から贈られた。

『文明の話』の第1巻は『我々の東洋の遺産』(1935年)であり、さらに導入部と3巻に分かれている。導入部は読者の文明の異なる側面(経済、政治、道徳、心理)に連れて行く。第1書は中東(シュメールエジプトバビロニアアッシリアユダヤペルシア)の文明を扱った、第2書は「インドとその近隣」を扱った。第3書は極東まで移動し、中国文明が繁栄し、日本史が世界の政治地図で居場所を見い出している。

その他の作品

1944年4月8日、ダラントはユダヤ教指導者マイアー・デイビッドとキリスト教指導者クリスチャン・リチャード博士から、道徳的水準を上げるための運動」を始めることについて相談を受けた。ダラントはそれではなく、人種差別に対する運動を始めることを示唆し、『相互依存の宣言』のための概念を説明した。その宣言のための運動、デクラレーション・オブ・インターディペンデンス Inc. は、1945年3月22日にハリウッド・ルーズベルト・ホテルでの祝賀会で立ち上げられ、トーマス・マンベティ・デイヴィスを含む400人以上が出席した[8]。この宣言は1945年10月1日に、エリス・E・パターソンによって連邦議会議事録に掲載された[9][注釈 1]

ダラントはその経歴を通じて何度か講演を行った。その中には1948年4月21日、イランテヘランでイラン・アメリカ協会の場での講演として行われた「文明の歴史におけるペルシア」もあった。これは「アジア研究所公報」(元はペルシアのためのアジア研究所公報」、その後「イランの芸術と考古学)第7巻第2書に含めることが意図されたが、結局出版されなかった[10]。その後に『ルソーと革命』が続き、『歴史の教訓』という薄い観察録が出たが、これらはシリーズの梗概であり、分析でもあった。

アリエルとウィリアムのダラント夫妻は『文明の話』を20世紀まで続ける意図があったが、単純に時間不足のために10巻目が最後になると予測していた。しかし1975年に11巻目で最後の『ナポレオンの時代』を出版するところまで行った。さらに12巻目として『ダーウィンの時代』のメモ、13巻目『アインシュタインの時代』の概要も残しており、それで1945年までが含められる予定だった。

ダラントの作品で近年に死後出版されたものもある。『全時代の最大の心と概念』(2002年)、『歴史の英雄: 古代から現代の夜明けまで文明の簡潔な歴史』(2001年)、『落ちた葉』(2014年)の3冊である。

晩年

ダラント夫妻は学術書と同じくらいラブストーリーでも注目され、それを『二重の自叙伝』に残している。ウィリアムが病院に入った後はエリアルが喫食を止めた。ウィリアムはエリアルが死んだと聞いた後に自身も死んだ。1981年10月25日と11月7日であり、2週間しか違わなかった。その娘、エセルと孫は病気で弱っているウィリアムにエリアルの死を知らせないようにしていたが、ウィリアムは夕刊の記事でそれを知り、96歳で死んだ。ロサンゼルス市のウェストウッドビレッジ記念公園墓地で、妻の隣に埋葬された。

ロシアに関する著作

1933年、ダラントは『ロシアの悲劇: 短期間の訪問の印象』を出版し、それからすぐに『ロシアの教訓』も出版した。それから数年後、社会評論家のウィル・ロジャースがこれらを読んで、ダラントも寄稿家の1人であり、ロジャースが出席したシンポジウムについて報告していた。ロジャースは後に「ダラントはロシアに関する我々の最良の著作家である。そこに居た最も恐れを知らぬ書き手である。彼はそれがどのようなものであるかを伝える。かれは力強く素晴らしい話をする。最も興味ある講義の1つを聞けた。素晴らしい仲間だ」と記していた[1]


  1. ^ Other sources say it was in 1949[8]
  1. ^ a b Rogers, Will (1966). Gragert, Steven K. ed. The Papers of Will Rogers. University of Oklahoma Press. p. 393 
  2. ^ Durant, Will (1935). Our Oriental Heritage. Simon & Schuster. p. vii 
  3. ^ https://ffrf.org/news/day/dayitems/item/14888-will-durant
  4. ^ a b c d Rubin, Joan Shelley. The Making of Middlebrow Culture, Univ. of North Carolina Press (1992)
  5. ^ Durant, Will (1935). Our Oriental Heritage. Simon and Schuster. p. 1051 
  6. ^ Norton, Dan (Spring 2011), “A Symphony of History: Will Durant’s The Story of Civilization”, The Objective Standard 6 (1): 3rd paragraph, http://www.theobjectivestandard.com/issues/2011-spring/a-symphony-of-history-will-durants-the-story-of-civilization/ 2012年5月29日閲覧。 .
  7. ^ WUACC, http://ktwu.wuacc.edu/journeys/scripts/412b.html .
  8. ^ a b Interdependence, Will Durant foundation, オリジナルのMarch 10, 2012時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20120310225853/http://www.willdurant.com/interdependence.htm .
  9. ^ (PDF) Declaration, Will Durant foundation, オリジナルのDecember 18, 2011時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20111218080336/http://www.willdurant.com/decenglish.pdf .
  10. ^ Durant, Will. “Persia in the History of Civilization” (PDF). Addressing Iran-America Society. Mazda Publishers. 2015年9月5日閲覧。
  11. ^ The Story of Civilization, V. 1., 71. See also this article's Discussion page.
  12. ^ “Epilogue—Why Rome fell”, The Story of Civilization, 3 Caesar And Christ, "A great civilization is not conquered from without until it has destroyed itself within. The essential causes of Rome's decline lay in her people, her morals, her class struggle, her failing trade, her bureaucratic despotism, her stifling taxes, her consuming wars." 
  13. ^ Durant, Will. Popular Science, Oct. 1927.
  14. ^ Durant, Will. Our Oriental Heritage, 1963, MJF Books; p. 300 (footnote).
  15. ^ Bibliography”. 2013年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月5日閲覧。
  16. ^ (英語) Jamiroquai - High Times, https://www.youtube.com/watch?v=URThII4DlBA 2022年10月29日閲覧。 





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