アレシアの戦い 戦力

アレシアの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/13 23:14 UTC 版)

戦力

上記の数字は全て『ガリア戦記』に基づいているが、ガリア軍の兵力には明らかな誇張が含まれており、現代の歴史家は、おそらくアレシアのガリア軍が20,000から30,000、解囲軍は50,000から70,000、つまりローマ軍とほぼ同等であろうと考察している。

戦後と影響

ウェルキンゲトリクスの降伏は、実質的に全ガリアにおける抵抗の終焉を意味した。その後も抵抗を続ける部族もいたが、カエサルによって平定され、紀元前51年には全ての部族がローマの支配下に置かれた。ガリアはローマの属州となり、ガリア・ルグドゥネンシスガリア・ベルギカガリア・アクィタニアの3つの管区へ分割された。

カエサルはガリア征服の成功によりガリアのパトロネジとなり、そこから得られる莫大な資金・人材・資源を元に自らの立場を強化した。莫大な富と名声を手に入れた(とは言え、地中海沿岸に比べて未開地が多いため、後のグナエウス・ポンペイウスらとの内戦の時には財力などで後手を取っていた)。元老院は特別のはからいとして、通常は5日間までと定められていた凱旋式を20日間開くことを許可したが、カエサルはこれを断った。

ガリア総督としてカエサルは自由に裁量を振るい、さらに実力を蓄えていったため、ポンペイウスら元老院派は焦燥感に駆られた。紀元前49年、軍隊の解散と本国召還を命じる元老院最終勧告の発動、カエサルによるルビコン川渡河によりローマ内戦が勃発した。カエサルはこの戦いを勝ち抜き、全ての政敵を追い落とした。この内戦においてカエサルの軍団を支えたのは、服属したガリア人の兵士であった。カエサルは紀元前46年に終身独裁官へ選出されたが、紀元前44年暗殺された。

カエサルの部下たちはまた異なった道を歩んだ。ティトゥス・ラビエヌスは、ガリア戦争後に元老院派に組してローマ内戦をカエサルの敵として戦い、紀元前45年ムンダの戦いで戦死した。ガイウス・トレボニウスは紀元前45年にカエサルのサブコンスル(執政官)となったがカエサル暗殺に加担し、紀元前43年にスミルナ(Smyrna、現:イズミル)で殺害された。デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスは、ガリア戦争後もカエサルの部下としてローマ内戦を戦ったが、カエサルを共和政の破壊者とみなすようになりカエサル暗殺に加わった。その後も共和政を一貫して支持したが、マルクス・アントニウスに敗北し、紀元前43年に殺害された。そのアントニウスは、カエサル暗殺の首謀者ガイウス・カッシウス・ロンギヌスマルクス・ユニウス・ブルトゥスフィリッピの戦いで破ってカエサルの後継者に名乗りを上げたが、もう1人の後継者候補のオクタウィアヌスと争いの末にアクティウムの海戦で敗れ、紀元前30年に自殺した。

ウェルキンゲトリクスは、マメルティヌスの牢獄での6年間の捕虜生活の後、内戦に勝利したカエサルがローマで行った凱旋式の後に処刑された[10]。19世紀、自由主義ナショナリズムの盛り上がりにつれて、ウェルキンゲトリクスはガリア(フランス)の自由と独立を求めた英雄として評価されるようになった。同様にアンビオリクスベルギーの英雄として評価されるようになった。

アレシアの位置について

アレシアの位置は長年にわたって疑問の的だった。候補地としてはフランシュ=コンテのアレーズ(Alaise)、コート=ドールのアリーズ=サント=レーヌ(Alise-Sainte-Reine)の2ヶ所が上げられていた。

1860年代、フランス皇帝ナポレオン3世は、この問題を解決するための発掘資金を提供し、調査の結果、アリーズ=サント=レーヌでローマ軍の野営地跡を発見した。ナポレオン3世は、発掘された台座の上にウェルキンゲトリクスの彫像を築いた。2004年に航空考古学の調査によって、包囲線の痕跡と思われるものが発見され、アリーズ=サント=レーヌこそアレシアであると結論付けられた。現在、同地にはアレシア包囲線を復元した建物が築かれている。

しかしながら、アリーズ=サント=レーヌはアレシアではないとする声も依然として存在する。周辺の地形がガリア戦記の記述と食い違うこと、80,000人を収容するには狭すぎること、などが主な反論である。もっとも、上記のようにカエサルの記述とはいえ全幅の信頼を置くことはできない。

他の候補地としては、ジュラ山脈のショウ・ド・クロテネー(Chaux-des-Crotenay)も、ガリア戦記の記述に近い地形であるとされているが、未だ発掘調査も進んでいない。


注釈

  1. ^ アルウェルニ族はローマ軍の同盟部族としてガリア戦争を戦っていた。ウェルキンゲトリクスは親ローマの族長を追放して新族長となった。
  2. ^ なお、彼らがこの後どうなったかは記述されていない。包囲網内で飢え死にしたか、方々に逃げたかは不明である。

出典

  1. ^ カエサル「ガリア戦記」7.3
  2. ^ カエサル「ガリア戦記」7.14
  3. ^ カエサル「ガリア戦記」7.65
  4. ^ Christian Goudineau, Le Dossier Vercingétorix、p.306、co-édition Actes Sud/Errance, 2001 ISBN 2-7427-3116-4
  5. ^ カエサル「ガリア戦記」7.67
  6. ^ カエサル「ガリア戦記」7.69、7.72
  7. ^ カエサル「ガリア戦記」7.78
  8. ^ カエサル「ガリア戦記」7.89
  9. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル27
  10. ^ カッシウス・ディオ (Storia romana xlii. 19, 4)


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