アレシアの位置について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/13 23:14 UTC 版)
「アレシアの戦い」の記事における「アレシアの位置について」の解説
アレシアの位置は長年にわたって疑問の的だった。候補地としてはフランシュ=コンテのアレーズ(Alaise)、コート=ドールのアリーズ=サント=レーヌ(Alise-Sainte-Reine)の2ヶ所が上げられていた。 1860年代、フランス皇帝ナポレオン3世は、この問題を解決するための発掘資金を提供し、調査の結果、アリーズ=サント=レーヌでローマ軍の野営地跡を発見した。ナポレオン3世は、発掘された台座の上にウェルキンゲトリクスの彫像を築いた。2004年に航空考古学の調査によって、包囲線の痕跡と思われるものが発見され、アリーズ=サント=レーヌこそアレシアであると結論付けられた。現在、同地にはアレシア包囲線を復元した建物が築かれている。 しかしながら、アリーズ=サント=レーヌはアレシアではないとする声も依然として存在する。周辺の地形がガリア戦記の記述と食い違うこと、80,000人を収容するには狭すぎること、などが主な反論である。もっとも、上記のようにカエサルの記述とはいえ全幅の信頼を置くことはできない。 他の候補地としては、ジュラ山脈のショウ・ド・クロテネー(Chaux-des-Crotenay)も、ガリア戦記の記述に近い地形であるとされているが、未だ発掘調査も進んでいない。
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