アプヴェーア 初期

アプヴェーア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/12 08:46 UTC 版)

初期

アプヴェーアは第一次世界大戦後、ドイツがドイツ国軍(ヴァイマル共和国軍)を設立した1921年に設立された。初代部長は第一次世界大戦でドイツ帝国軍情報部長ヴァルター・ニコライ(de:Walter Nicolai (Geheimdienstoffizier))大佐の代理を務めたフリードリッヒ・ゲンプ(de:Friedrich Gempp)少佐。初期の組織では事務職を合わせて、3人の新任、7人の前任者であり、3つのセクションで運営されていた。

1928年ドイツ海軍の情報部がアプヴェーアに統合された。

1930年代に、アドルフ・ヒトラー率いるナチ党が台頭してくると、国防省は再編成され、1932年6月7日陸軍将校が多く配置されていたにもかかわらず、海軍大佐コンラート・パッツィヒ(de:Conrad Patzig)が情報部長に任命された。これは、当時の情報部は規模・重要性が小さかった為に、野心的な将校に人気がなかったことに加え、海軍士官は在外経験者が多く、海外事情に強いということが要因と言われている。何はともあれ、全3部の活動は、独自の諜報部員を成長させることになった。

後にポーランド国境におけるアプヴェーアが主導した航空機による調査飛行のために、パッツィヒは親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと対立した。国防軍首脳はこの飛行計画のために、ポーランド侵攻作戦が漏れることを恐れていたのである。その結果、パッツィヒは1935年1月、旧式戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」艦長へ異動した[5](後に、海軍人事担当となる)。ナチ党を嫌っていたパンツィヒに代わって、協調できる人物として海軍総司令官エーリヒ・レーダーが推挙した後任の部長がヴィルヘルム・カナリス海軍大佐であった[6]


  1. ^ 広田厚司『WWIIドイツの特殊作戦 恐るべき無法と無謀の集大成』(光人社NF文庫、2011年)p.13-14
  2. ^ 広田、前掲書、p.21-22
  3. ^ 広田、前掲書、p.14
  4. ^ 広田、前掲書、p.28-29
  5. ^ 広田、前掲書、p.16-19
  6. ^ 広田、前掲書、p.19
  7. ^ 技術知識担当のGruppe I-TもI係に付属した。
  8. ^ 広田、前掲書、p.24-28





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