'90長崎旅博覧会 関連イベント

'90長崎旅博覧会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/15 12:42 UTC 版)

関連イベント

交通

シャトルバス
  • 中央卸売市場(東長崎)・茂里町・油木町・川平町・時津南公園各地と松ヶ枝会場の間にシャトルバスが運行された。(時津南公園からの利用者はいなかった)
  • JR九州長崎駅と松ヶ枝会場の間にリフト付きの福祉バスが運行された。
  • 松ヶ枝会場・グラバー邸・孔子廟の3会場を結ぶ交通手段としてリフト付きの福祉タクシーが運行された。
シャトル電車
シャトルボート
  • JR長崎駅裏の旅博ターミナルプラザ(旧・長崎魚市跡)から松ヶ枝会場前の常磐町岸壁の間にシャトルボート「あんぜらす号」が運行された。

開催に向けて

  • 1985年(昭和60年)
    • 11月6日 - 高田勇長崎県知事本島等長崎市長が共同で記者会見し、1988年(昭和63年)の夏から秋にかけて長崎港の東側沿岸部で「'88長崎国際博覧会」を開催する計画を明らかにする。
      • テーマは「『旅』海と心2001」で、キャッチフレーズは「ビードロ色の旅」。同日政財界・学識経験者・関係行政機関代表ら50名から成る「'88長崎国際博覧会委員会」(委員長:清島省三)が発足。
      • 長崎が持つ歴史的特性を生かし、21世紀への起爆剤と位置付け、長崎県と長崎市挙げての県内初の大イベントとして計画された。本島長崎市長は国際博1年後の1989年(昭和64年・平成元年)には長崎市制100年を迎え、落ち込んでいる経済の活性化にイベント開催の意義は大きいとした。
  • 1986年(昭和61年)
    • 3月12日 - 本島市長、用地や交通対策に問題があるため博覧会の開催を2年以上延期するよう長崎県に要請。
    • 3月13日 - 高田県知事、当初の方針通り1988年(昭和63年)に開催したいと言明。
    • 4月7日 - 長崎国際博覧会の準備室が長崎県庁別館に開設される。県職員3名、市職員2名、県警と商工会議所が各1名の計7名で国際博の詳細な計画作成、出張パビリオンの勧誘にあたる。
    • 4月11日 - 会場は当初の20万km²より縮小得ざるをえないことが事務局より説明され、了承される。
    • 5月6日 - 長崎国際博覧会委員会総会、開催規模を当初計画の約半分の11万m²に縮小し、昭和63年に開催するという主催者側の修正案に同意。
      • この日をもって委員会は解散し、今後の運営母体を財団法人長崎国際博覧会協会にすることを決める。
    • 6月11日 - 長崎国際博覧会協会の設立総会が行われる。会長を高田勇(県知事)、副会長を本島等(市長)ら5名とする。
      • 開催経費は23億7,000万円と決まり、このうち長崎県と長崎市が各1億5,000万円、長崎商工会議所が1億円を負担。残りは各種団体からの協賛金、出展参加料、入場料収入でまかなうこととなった。
    • 8月27日 - 高田県知事、長崎国際博覧会の開催時期を1988年(昭和63年)から1990年(昭和65年、実際は平成2年)に延期する方針を固める。
      • 7月県議会定例会において、昭和63年開催に対し、市中心部の道路整備が間に合わず、交通まひは必至と批判が相次いだのがきっかけ。
      • また名称も当初の「長崎国際博覧会」を変更し、名称は公募することとした。(「国際博」という言葉を使用する際には「国際博覧会に関する条約」で2ヶ国以上の政府参加が必要と規定されており、当時の通産省も別の名称への変更が望ましいとしていた。)
    • 9月5日 - 長崎県知事より博覧会延期の説明と要請を受けた本島等長崎市長、長崎市議会において延期の方針を説明し、議会の了承を得る。
      • 延期の理由として「準備期間にゆとりができる」、道路(長崎自動車道長崎バイパス)が整備される」、「長崎魚市跡地が利用できる」の3点があげられた。
    • 9月16日 - 長崎国際博覧会協会理事会、博覧会の開催を延期することを正式に決定。
    • 11月26日 - 長崎国際博覧会協会、博覧会を長崎県内全市町村総参加の博覧会とするため、各市町村の幹部職員からなる市町村専門委員会を発足。
      • 協会側は各市町村で関連の催しを企画し、特産品、観光ルートの開発で博覧会の客を県内全域に呼べるようにと要請。
    • 12月18日 - 博覧会の名称が「'90長崎旅博覧会」に決定。名称の公募には全国から3,550通の応募があり、「長崎旅博覧会」としたのは102通もあった。
  • 1987年(昭和62年)
    • 2月2日 - 旅博開催期間を1990年(昭和65年、実際には平成2年)8月3日から11月4日までの94日間に決定。想定入場者数を150万人に設定。
    • 9月30日 - 主会場に予定していた長崎魚市場用地の使用を断念し、新たに海上に浮かべた台船を会場に取り入れるなどの代替案を決定。
      • 当初、長崎魚市跡地、長崎駅事業団用地、松が枝国際観光埠頭を主会場として計画を進めていたが、台風12号による新長崎漁港の被害で長崎魚市の移転が遅れるため、魚市跡地利用を断念せざるを得なかった。
    • 10月3日 - 長崎旅博覧会協会緊急理事会、海上変更を正式に決定。
    • 11月6日 - 長崎旅博覧会協会理事会、海上使用など主会場を松が枝地区に一本化したことに伴う修正基本計画を決定。
      • 主会場は松が枝国際観光埠頭(長崎エキゾチックショーケース)、埠頭に接岸した浮体会場(海のショーケース)、隣接するグラバー園(世界の旅ショーケース)で総面積は計6万6,000km²。
      • 映像パビリオン、シミュレーションシアター、イベント会場を設置。会場一体化のため、埠頭とグラバー園を結ぶギャラリー(高架回廊)を建設。
      • 市内会場は大浦天主堂長崎新地中華街平和公園などの観光スポットを軸に「異国」(西洋)、「異国」(中国)、「賑わい」、「やすらぎ」、「であい」、「愛と平和」、「想い」の7ゾーンに分ける。
  • 1988年(昭和63年)
    • 4月21日 - 長崎旅博覧会大要が決定する。
    • 6月17日 - 長崎旅博覧会推進大会と推進会議結成総会が長崎市公会堂で開催される。
    • 6月22日 - 観光誘致と宿泊対策の専門委員会を設置。
  • 1989年(平成元年)
    • 1月9日 - 長崎旅博覧会協会理事会、松が枝埠頭前に浮かべる台船計画をやめて、埠頭横に5,000m²の出島型会場を築き出し、開場時間の1時間繰り上げを正式に決定。
      • 出島型会場は旧出島の約3分の1の面積「長崎ストーリー館」とし、長崎県の歴史を展開するほか、県内各地の特産品販売コーナーを設けることとした。
    • 3月17日 - ミス旅博5名が選出される。
    • 3月20日 - 旅博覧会500日前を記念し、「旅博まつり」が長崎市民会館で開催される。
    • 8月 - 前売券の販売を開始。

その他

  • 博覧会実施中、大浦警察署内に「長崎旅博覧会現地警備本部」が設置された。
  • 長崎自動車では、当時の経年車をシャトルバスに転用したことで、この年は通常9~10月(後半期車両の場合)に実施されてきた新車導入を、2~3か月ほど前倒ししている。また長崎県交通局では、当博覧会に備えて1988年に1回目の前中4枚折戸車の試験導入を実施している。
  • さだまさしが旅博にむけて、私的に応援歌と題して『長崎から』を発表した。

  1. ^ a b 『トピックスで読む長崎の歴史』,P299
  2. ^ 長崎「旅」博覧会開幕 - 長崎商工会議所 130年の歩み ウェブサイト
  3. ^ SL「長崎旅博号」


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