殉死とは? わかりやすく解説

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じゅん‐し【殉死】

読み方:じゅんし

[名](スル)主君死亡したときに、臣下があとを追って自殺すること。


じゅんし 【殉死】

主君死んだとき、臣下があとを追って自殺すること。おいばら。自らの意志ではなく犠牲としての殉死もある。

殉死

作者司馬遼太郎

収載図書昭和文学全集 18
出版社小学館
刊行年月1987.8


殉死

作者曾野綾子

収載図書昭和文学全集 25
出版社小学館
刊行年月1988.4


殉死

作者山本周五郎

収載図書一人ならじ 改版
出版社新潮社
刊行年月2003.7
シリーズ名新潮文庫


殉死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/05/05 20:52 UTC 版)

殉死(じゅんし)とは、主君や夫などの死を追って臣下や妻などが死ぬ(死に殉じる)こと。殉死させたうえで葬ることを、殉葬(じゅんそう)という。殉死者が任意に自殺する場合もあれば、強制的に殉死させられる場合もある。

殉死が法的に禁じられる時代もあったが、それは殉死によって優秀な人材を喪失するのを避ける目的などがあったものと考えられる。

古代エジプトメソポタミア、古代中国、古代朝鮮半島日本などにおいては殉葬が行われた。

日本

古代

考古学的に見て確実な殉死の例は確認できないとされ、普遍的に行われていたかは不明であるが、弥生時代墳丘墓古墳時代には墳丘周辺で副葬品の見られない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性が考えられている。また、5世紀には古墳周辺に馬が葬られている例があり、渡来人習俗の影響も考えられている。中国の歴史書『三国志』の『魏志』倭人伝に「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、卑弥呼が死去し塚を築いた際に、約100人の奴婢が殉葬されたという。

また、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』には,殉死の伝承が散見している。例えば、649年には右大臣蘇我倉山田石川麻呂は異母弟蘇我日向の讒言により、飛鳥山田寺で自尽するが、その際に妻子ら8人が殉死している[1]。『日本書紀』垂仁紀28年条では、その残酷さゆえに禁止したと記され、32年条には、野見宿禰日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬(埴輪)を立てることを提案した記事(埴輪起源説話)が見られる。

野見宿禰の埴輪説話に関して、津田左右吉は、『古事記』との記述の差異から後世の創作とし(津田1948年)、考古学的にも古墳から殉死の痕跡が確認されていないために否定された(『土曜考古』第27号(2003年5月、土曜考古学研究会)p.146)。弥生時代後期の吉備で祭祀に使用された「特殊器台」の特殊な文様や赤彩された大型の器台や円筒などが、初期ヤマト王権の墓制に取り入れられ、「埴輪」に変化したとの説が有力となっている[2]。しかし、21世紀現在でも殉死の研究例はあり、笹森健一の『埴輪起源説話からみた殉死』(前述の『土曜考古』内p.145から所収)では、清寧紀(元年)の雄略天皇の葬儀の記事に着目し、「雄略天皇の近習である隼人が、昼夜、陵のそばで大声をあげて泣き続け、食物を与えても食べず、哀号しながら7日目に死に、役人は陵の北側に墓を作り、礼をもって葬った」とあり、物語の時系列的には、殉死が禁止された垂仁紀以降でありながら、殉死が許されたのは、垂仁期の殉死が「強制的」であり、そこから清寧期の殉死が「自主的」な形へと変容したものと仮説を立て、諸々の考察から5世紀頃に国家的儀礼の変化があったことを示唆している(『土曜考古』同号、p.150)。

『日本書紀』大化2年(646年)3月22日条によれば、大化の改新後に大化薄葬令が規定され、前方後円墳の造営が停止され古墳の小型化が進むが、このときに人馬の殉死殉葬も禁止されている。

『誠忠義士傳 斧寺十内妻』(歌川国芳画)

武士の殉死

近世初期の逸話を集めた書物『明良洪範』3巻では、殉死を真に主君への忠義から出た「義腹」(ぎばら)、誰かが殉死するために自分も殉死しなければならないとする理屈に基づく「論腹」(ろんばら)、殉死することで子孫の栄達を図る「商腹」(あきないばら)に分類している[3][4]。しかし、殉死者の家族が加増を受けたり栄達したりしたケースはほとんどない。さらに、殉死者の家に男子の跡継ぎがいない場合でも母が援助されたり、弟や甥が家督を譲られたりしたこともない。このため「商腹」が実行されたことは兆候さえなく、歴史的事実ではないとされる[5]

主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切ったりした場合、家来達が後を追って討ち死にしたり切腹したりした(『明徳記』)[6]。しかし、主君が病死など自然死の場合に殉死する習慣は、戦国時代以前にはなかった[6][7]。主君の病死にまで追腹を切った例は、1392年管領細川頼之に対する三島外記の場合を記録した『明徳記』に「前代未聞の振舞」とあるように、特異なできごととみなされていた[1]

ところが、江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより主君への忠誠が示せなくなったため、自然死の場合でも家臣が殉死をするようになったという[7]1607年慶長12年)に松平忠吉が病死した際の殉死が最初であるといわれ、同年の結城秀康病死後に万石取りの重臣らが後を追い、盛行した[8]徳川秀忠家光の死に際しては老中・老中経験者が殉死している[7]。こうした行動の背景にはかぶき者や男色との関連があるという説もある[9]。この頃から殉死は美風とみなされ、殉死者の墓を主君の墓のそばに立てたり、子孫を優遇するなどの措置が多くの藩でとられた[1]。一方で、殉死しなかった者に対しては、家光に殉じなかった松平信綱は世間の批判を受け、「仕置だてせずとも御代はまつ平 爰(ここ)にいづとも死出の供せよ」という落首が貼り出されるなど[10]、周囲から不忠者として非難された[1]

1636年に仙台藩主伊達政宗が死んだ際には殉死者が15人、その殉死者のために殉死した者が5人出た[1]。1641年に死んだ熊本藩主細川忠利には18人の殉死者があった[1]。しかし殉死が流行すると、有能な人材が失われるなど弊害も大きくなった[1]

4代将軍徳川家綱から5代綱吉の治世期、幕政が武断政治から文治政治へと移行しつつある中、幕府に先立ち寛文元年(1661年)7月、水戸藩徳川光圀が重臣団からの徳川頼房への殉死願いを許さず、同年8月には会津藩保科正之が殉死の禁止を藩法に加えた[11]。当時の幕閣を指導していた保科正之の指導の下、寛文3年(1663年)5月[12]武家諸法度の公布とともに、幕府は殉死は「不義無益」であるとしてその禁止が各大名家に口頭伝達された[7]。1668年には禁に反したという理由で宇都宮藩奥平昌能転封処分を受け[7]殉死者の子は斬罪に処された[1]追腹一件)。殉死の禁止は、家臣と主君との情緒的人格的関係を否定し、家臣は「主君の家」に仕えるべきであるという新たな主従関係の構築を意図したものだと考えられる[13]

この後、延宝8年に堀田正信が家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている。天和3年には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされた。

近現代

1912年大正元年)、明治天皇崩御の際に陸軍軍人乃木希典が妻の静子とともに殉死して社会的議論を呼び、森鴎外は殉死をテーマにした「阿部一族」などを執筆している。

1989年昭和天皇崩御の際にも確認されているだけで数名の殉死者が出ている。崩御と同日に和歌山県で87歳男性が自殺[14]茨城県でも元海軍少尉の76歳男性が「陛下の一人の兵士としてお供をいたします」と遺書を残して[15]それぞれ自殺した。数日後には福岡県で38歳男性が割腹自殺を遂げ[16]、およそ2か月後にも東京都で元陸軍中尉の66歳男性が自殺している[17]

中国

中国では、殷墟で王墓や建造物の遺構から生贄や殉死者と考えられる多数の人骨が出土している[18]。記録としては紀元前7世紀、武公の死に殉じた者がいたと『史記』に記されている。以後、清朝初期に至るまで、皇帝や王の死にあたって多くの妻妾や従者、奴隷が殉死させられた。また、妻が夫の死に対し殉ずることも広くみられた[1]

インド

インドでは、ヒンドゥー教における古い慣習で、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をするサティーが行われていた。寡婦は宗教的に不浄な存在とみなされ、社会から忌避された。こうした寡婦の悲惨な生活と女性の低い地位から、寡婦の理想として殉死を求める社会状況が生まれ、これが慣習化した。19世紀初めの調査によれば、年間600件程度の事例がみられ、ラーム・モーハン・ローイインド総督を動かすことで1829年に禁止法が制定されたが、今日でもまれに行われることがあり、死した寡婦は女神として祭られることが多い[19]

エジプト

古代エジプトでは殉死が行われていた[1]エジプト第1王朝アビドスにある王墓とマスタバから殉葬が見られる。ジェル王大墓には338基、ジェト王大墓には174基の殉葬墓が付属し、ジェト王のサッカラにあるマスタバでは、周囲を62基の殉葬墓がとりまいている[20]

メソポタミア

メソポタミアでは王が死去した際、殉死が行われた[1]ウルの王墓の殉葬では、棺に入った王が墓室内に安置された後、人々は地下へ向かい、自ら毒の盃をあおり殉死し、土で埋められ、王と死出の旅路を共にした[21]

殉死を扱った作品

参考文献

関連書籍

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 三訂版,デジタル大辞泉プラス,世界大百科事典内言及, デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,普及版 字通,山川 日本史小辞典 改訂新版,旺文社日本史事典. 殉死(ジュンシ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2026年5月5日閲覧。
  2. 2011年奈良県立橿原考古学研究所附属博物館「特別陳列開催要項埴輪のはじまり-大和の特殊器台とその背景」開催要項(2019年3月22日閲覧)
  3. 山本 1993, p. 81.
  4. 百瀬 1996, p. 52.
  5. 山本 1993, p. 82.
  6. 1 2 山本 1993, p. 39.
  7. 1 2 3 4 5 横田 2009, p. 286.
  8. 百瀬 1996, p. 51.
  9. 横田 2009, pp. 286–287.
  10. 百瀬 1996, p. 51-52.
  11. 百瀬 1996, p. 55-56.
  12. この年1月、丹後国田辺藩主の京極高直が死去し、家臣五名が殉死している。
  13. 横田 2009, pp. 287.
  14. 読売新聞』1989年1月8日「昭和天皇崩御 『お供』と87歳男性が後追い自殺/和歌山」
  15. 毎日新聞』1989年1月9日「『一兵士としてお供』と昭和天皇の後追い自殺-茨城」
  16. 『読売新聞』1989年1月13日「また昭和天皇の後追い自殺 38歳男性が割腹し/福岡・博多」
  17. 朝日新聞』1989年3月4日「昭和天皇の後追い自殺 東京・大塚で短銃使い旧軍人」
  18. 古代遺跡より出土した生贄人骨に見られる損傷の法医病理学的研究”. KAKEN. 2026年5月5日閲覧。
  19. 三訂版,世界大百科事典内言及, 改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,山川 世界史小辞典 改訂新版,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社世界史事典. サティーとは? 意味や使い方”. コトバンク. 2026年5月5日閲覧。
  20. 小項目事典,世界大百科事典内言及, 改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,普及版 字通,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典. 殉葬(じゅんそう)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2026年5月5日閲覧。
  21. 東京国立博物館 -トーハク-. 【1089ブログ】 生贄(いけにえ)とは何か?”. www.tnm.jp. 2026年5月5日閲覧。

関連項目


殉死

出典:『Wiktionary』 (2021/10/16 23:43 UTC 版)

名詞

じゅんし

  1. 家臣主君際し自殺すること。

動詞

活用

サ行変格活用
殉死-する

「殉死」の例文・使い方・用例・文例

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