ナンマドル
ナンマトル
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ナンマトル(Nan Madol[注釈 1])は、ミクロネシア連邦のポンペイ州に残る人工島群の総称であり、後述するように、その考古遺跡の規模はオセアニア最大とさえ言われる。人工島が築かれ始めたのは西暦500年頃からだが、ポンペイ島全土を支配する王朝(シャウテレウル王朝)が成立した1000年頃から建設が本格化し、盛期を迎えた1200年頃から1500年(または1600年)頃までに多数の巨石記念物が作り上げられていった。人工島は玄武岩の枠の内側をサンゴや砂で埋めて造ったもので、100以上とされる人工島は互いに水路で隔てられており、その景観は「太平洋のヴェニス」[3][4][5]、「南海(南洋)のヴェニス」[6][7][8]、「ミクロネシアのアンコールワット」[9]などとも呼ばれる。
注釈
- ^ ナンマトルに含まれる各遺跡の綴りの揺れは多いが、ナンマトルそのものは Nan Madol と表記されるのが一般的である。ただし、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版』(2015年)では、Nanmatol と綴られている。
- ^ マサオ・ハドレイ(Masao Hadley, 1916年 - 1993年)の父は、1966年まで30年以上マトレニーム地区のナーンマルキ(首長)の座にあったモーゼス・ハドレイであった(Hadley 2014 f.132)。マサオ・ハドレイは古い伝承に詳しい古老、あるいは外国の調査団のガイド役として、日本語文献にも何度か登場している(白井 1977、門脇 1985、永田 2005 など)。また、日本のテレビ番組『TVムック・謎学の旅』でもナンマトルの伝承を語った(原田 2011, pp. 175, 179)。その伝承の内容はHadley 2014にまとめられている。
- ^ これ以外に「広い所に」(永田 2005, p. 93)とか「天と地の間」(古田 & 古田 2016)と説明している文献もある。
- ^ FSM 2015, p. 21によるが、出身地を「未知の国」(永田 2005, p. 93)、ショケース地区(植木 1978, p. 178)などとする文献もある。片岡, 長岡 & 石村 2017では「カチャウ」はカナ表記だけでなく、「海の彼方の世界」とも訳出されている。
- ^ 歴代のシャウテレウルの人数は、8代から17代まで何種類もの異伝がある(FSM 2015, p. 22)。
- ^ イショケレケルは統一政権を作ったが、後継者の時代に分裂したという異伝もあるらしい(白井 1977, pp. 203–204)。
- ^ 他方で、シャウテレウル朝が1638年までは続いていたという説もある(FSM 2015, p. 36)。
- ^ 「カチャウ」を実在のコスラエ島の古称としている文献がある(Flood, Strong & Flood 2002, p. 147)。その一方、東ミクロネシアにはカチャウ信仰といって、カチャウを精霊の世界と見なす信仰があり、首長の出身地と結びつけられることがある(片岡, 長岡 & 石村 2017, p. 98)。
- ^ 片岡 & 長岡 2015 (p.73) およびFSM 2016 (p.25) に基づくが、清水 2007や小林 2010bによると、1.4 km × 0.5 km となっている。
- ^ 島の数は文献によって異なる。金子 1977は98、植木 1978 (p.178) は50として80とする説を併記、八幡 1980 (p.184) や下中 1979は80、太平洋学会 1989 (p.352) は「80~92ほど」、永田 2005は約100、片岡 & 長岡 2015や石村 2015は95、World Heritage Centre 2016a (p.217) は100以上、などとなっている。ミクロネシア連邦当局による世界遺産推薦書(FSM 2015, p. 25)では、名前が与えられている島99と、無名の島がいくつか、とされている。この記事本文で100以上としたのは、ミクロネシア連邦当局の主張と、それを踏まえた世界遺産委員会の数値を尊重したもの。島の数に異説が多いが、これは過去に未発見の島や誤認があっただけでなく、人工島の定義の問題なども絡み、論者によって数え方自体が異なることによる(片岡, 長岡 & 石村 2017, p. 80)。
- ^ a b 「上マトル」「下マトル」は片岡, 長岡 & 石村 2017の表記だが(地図及びp.97)、「上ナンマトル」「下ナンマトル」という表記が使われている箇所もある(p.72)。ミクロネシア連邦当局が提出した世界遺産推薦書では、(記事本文に示したように) Madol Powe / Pah と Upper / Lower Nan Madol が併記されている。
- ^ ナンマトル内の各島や遺跡については、過去に考古学者たちが様々なラテン文字転写を行なってきた。ナントワスにしても、FSM 2015では他に11種もの綴りが示されている。この項目では便宜上、FSM 2015が見出しに採用している綴りを優先する。
- ^ 植木 1978 (p.180) では、中央の墓の他に3つの墓とされている。2つの墓の他にもうひとつ穴があるが、この穴は現在では敗者や罪人を捕らえておくためのものとみなされている(FSM 2015, p. 285)。
- ^ 1529年のスペイン船による発見の可能性もあり(片岡 & 長岡 2015, p. 71)、そちらを最初とする資料もある(在ミクロネシア日本国大使館 2014)。
- ^ 当時のミクロネシア連邦は太平洋諸島信託統治領に属し、施政権者はアメリカ合衆国。
- ^ 国際機関太平洋諸島センターは、その料金システムの複雑さなどから、ナンマトル観光にはツアー参加を推奨していた。同センターは、観光会社のツアーだけでなく、地元のホテルも大抵はツアーを催行していることも紹介していた(太平洋諸島センター 2013, pp. 36, 37, 40)。
- ^ なお、世界遺産推薦に協力した日本の研究者たちは、発掘調査に先立ち、ナーンマルキに許可を取っている(片岡 & 長岡 2015, p. 75)。
- ^ 日本ユネスコ信託基金から拠出された金額は、2017年まで12万ドル (USD) にのぼる(State of Conservation (2017) - Nan Madol: Ceremonial Centre of Eastern Micronesia, 2017年7月30日閲覧)。
- ^ 比較対象となったのはラパ・ヌイ国立公園(チリの世界遺産、1995年登録)、パパハナウモクアケア(アメリカ合衆国の世界遺産、2010年登録)、タプタプアテア(当時フランスの暫定リスト記載物件、2017年に世界遺産登録)などのオセアニアの考古遺跡のほか、より広い範囲の巨石遺跡や墓所、すなわちストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群(イギリスの世界遺産、1986年)、国史跡グレート・ジンバブエ遺跡(ジンバブエの世界遺産、1986年登録)、神聖都市カラル=スーペ(ペルーの世界遺産、2009年登録)、さらには百舌鳥・古市古墳群(当時は日本の暫定リスト記載物件、2019年に世界遺産登録)などである(ICOMOS 2016, p. 105)。
- ^ ミクロネシア連邦で先に推薦されたのはパラオとの共同推薦である「パラオとヤップのヤップ石貨遺跡群」だが、2011年の第35回世界遺産委員会で審議された結果、「登録延期」と決議されていた(cf. 『月刊文化財』2012年1月号、p.22)。
- ^ 決議書の英語版(World Heritage Centre 2016a, p. 217)の原語は a distinctive ‘header-stretcher technique’ で、仏語版(World Heritage Centre 2016b, p. 214)ではune technique distinctive en « carreaux et boutisses » となっている。
表記
- ^ チェムェンは日本語文献では、「テムエン」(太平洋学会 1989、片岡 & 長岡 2015)、「トムン(タモン)」(植木 1978, p. 178)、「テメン」(印東 2005)、「テムウェン」(永田 2005、篠遠 2010)等とも表記される。
- ^ ナーンマルキは、片岡, 長岡 & 石村 2017以前の文献では「ナンマルキ」という表記の方が一般的だった。太平洋学会 1989、小林 2010aもそうであるし、片岡 & 長岡 2015や石村 2015もそうであった。
- ^ マトレニームは、「マタレニーム」(片岡 & 長岡 2015)、「マタラニウム」(植木 1978、太平洋諸島センター 2013)、「マタレニウム」(太平洋学会 1989)などとも表記される。
- ^ 「オロシーパとオロショーパ」は、日本語では「オロシパとオロソパ」(白井 1977, p. 124)、「オロチパとオロチョパ」(植木 1978, p. 178)と表記する文献もあった。
- ^ 日本語での「シャウテレウル」の表記は、「シャウ・テレウル」(太平洋学会 1989、清水 2007、小林 2010 etc.)、「シャウ・テ・レウル」(植木 1978、下中 1979、高山 1983、印東 2005 etc.)、「シャーウテール」(在ミクロネシア日本国大使館 2014、プレック研究所 2017)、「サウデルール」(世界遺産検定事務局 2017)など、様々な揺れがある。
- ^ ナーンシャペを「ナン・サプエ」(白井 1977, p. 127)、「ナン・サプウェ」(石村 2015)と表記する日本語文献もある。
- ^ 「イショケレケル」は「イソケレケル」(白井 1977 ; 植木 1978)とも表記される。
- ^ ナントワスは「ナンタワス」(片岡 & 長岡 2015, p. 74)、「ナン・タウアス」(八幡 1980, p. 184)、「ナンタウアス」(植木 1978, p. 179)、「ナン・トウワシ」(太平洋学会 1989)、「ナントワシ」(永田 2005, p. 91)、「ナン・ダゥワス」(印東 2005)、「ナンドワス」(篠遠 2010)など、いくつもの表記がある。
- ^ ウシェンタウは「ウーセンタウ」(文化遺産国際協力コンソーシアム 2012)とも表記される。
- ^ ペインキチェルは「ペインキテル」(文化遺産国際協力コンソーシアム 2012)とも表記される。
- ^ パーンケティラは「パンカトラ」(白井 1977, p. 147)、「パーンカティラ」(石村 2015)などとも表記される。
- ^ トロンは「タロング」(永田 2005, p. 95)とも表記される。
出典
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- ^ 白井 1977, p. 78
- ^ 例として、永田 2005、篠遠 2007、在ミクロネシア日本国大使館 2014、片岡 & 長岡 2015、日本ユネスコ協会連盟 2016 およびミクロネシア連邦政府観光局(2017年8月15日閲覧)
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